今回、本当に偶然の機会に、私共河瀬に演奏の声を掛けていただきました。
そして、片岡氏から、「Speranza スペランツァ」というグループ名の由来は?と尋ねられ、デュオ結成当時の事を思い起こしてみました。同じ相愛大学で、共にイタリア語を専攻し、同じクラスになった縁で親交を深め、自然な流れの中、デュオ結成に至りました。
私たちデュオの名前は、はじめ、未来への希望を意味する「Future hope(英語)」という言葉が好きだった河瀬が、私たちの出会いのきっかけとなったイタリア語で「未来への希望」は何と表現するのか調べました。「Speranza futuro」でしたが、少し長いので、「希望」の部分だけ採用して、「Speranza」とさせて頂いたわけです。
今まで、グループのテーマ曲はなかったのですが、この機会にと、希望という言葉を意味する曲はないか調べていたところ、ショパンの曲にたどり着きました。ドイツ語訳からの再訳によって「乙女のねがい」と認識していたその曲は、ポーランド語訳では「のぞみ」と訳されるようです。本日後半で演奏させていただきます。
以下は、曲目の紹介です。
「悲しみのバラード」
フリッツ・クライスラー作曲 <愛の悲しみ>
クライスラーは、オーストリア出身、ユダヤ系の作曲家であり世界的ヴァイオリニストです。後にアメリカ国籍を取得しニューヨークで生涯を終えています。
<愛の悲しみ>は短調で文字通り悲しげな気分を描いています。ヴァイオリニスト必須のレパートリーだが、音域の似ているフルートでも演奏されます。今回の会のテーマを聞いたときに、一番に思い付いた曲です。
ショパン作曲 練習曲第3番 ホ長調 Op.10-3<別れの曲>
<別れの曲>として知られるが、ショパン自身の命名ではありません。ショパン自身このような美しい旋律を、彼のそれまでの一生の間に書いたことがない、といったという逸話を弟子のグートマンが伝えています。グートマンは、あるとき彼がこの曲を練習していると、ショパンが彼の腕をとってあげ、「おお、わが祖国よ!」と叫んだという話も報じています。近年、この美しいメロディーに様々な歌詞がつけられ、歌の曲としても広く親しまれています。
J・Sバッハ作曲 <ブランデンブルク協奏曲第5番 第二楽章>
ブランデンブルク協奏曲は6曲の合奏協奏曲であるが、唯一、最後に作曲されたと見られる第5番については、作曲の時期と動機をうかがわせる、かなり有力な状況証拠が残っています。1719年、宮廷からバッハに大金が支払われた記録があり、その明細によると、バッハがベルリンまでチェンバロを受け取りに行ったらしいのです。購入されたチェンバロが高価であることから、バッハがそれ以前に一度ベルリンに赴いて、オーダーメードでチェンバロを作らせたのではないかと考えられています。新しいチェンバロを前にして、バッハが作曲の腕をふるっただろうことは想像に難くありません。本来、ヴァイオリンとフルートの掛け合いにチェンバロが伴奏するという形で進行するのですが、今回はチェンバロがすべての楽器を担い、そこへ美しいフルートの旋律が乗るという形で演奏させていただきます。
ショパン作曲 前奏曲第4番 ホ短調 Op.28-4
パリのマドレーヌ寺院で挙行された、ショパンの葬式の際、同寺院のオルガンによって演奏されました。
オルガンを弾いたのはショパンの友人、フランツ・リストでした。
アストル・ピアソラ作曲 <孤独の歳月>
ピアソラはアルゼンチン出身のイタリア移民3世ですが、1954年パリに留学しています。この曲は、留学中にバリトンサックス奏者、ジェリー・マリガンとの共演による録音アルバム「サミット」で一躍有名になり、後にフランス人マキシム・ル・フォレスティエが歌詞を付け、歌われるようになりました。
<チャンスは一度だけ あの人は唄う 罪びとの血を引く 孤独を生きるのだから
すすり泣くような あの歌聴くと 気づかぬ渇きに 過ぎし日を想い強い酒が沁みる 眠りのなか すべて 消える 美しいまま 死と不安のあいだで 私を待っている あの古い調べが 私に告げるのは 長く 暗い夜 愛のない夜は 孤独の時を ただ生きるのだと 愛もなく生きるくらいなら いっそ死んでしまおう そう思う けれど朝の光に旅立つその時 呼んでいるブエノスアイレス あのダンスの夜が そこで私は再び出会うだろう ただ一曲のダンスに孤独を忘れるだろう・・・と歌われます。
ガブリエル・フォーレ作曲 < 夢のあとに>
パブロ・カザルスがチェロ独奏に編曲してからチェロの小品としても親しまれているが、チェロに限らず、フルートやヴァイオリンなど、さまざまな独奏楽器のためのピースとして愛好されています。しかしこれはもともと歌曲であり、歌詞はロマン・ビュシーヌというフランスの詩人によるものです。日本語の訳は次の通りです。
<君の姿が魅了するまどろみの中 ぼくは夢見てた 幸せを、燃え上がる幻影を
君の瞳は優しく、君の声は澄んで響き 君は光り輝いてた、朝焼けに照らされる空のように
君はぼくを呼び、そしてぼくはこの地上を離れて 君と一緒に飛び立ったのだ 光に向かって
空はぼくたちのために雲の扉を開き 未知なる栄光が、神々しい閃光がほのかに見えた
ああ!ああ!悲しい夢からの目覚め
ぼくはお前を呼ぶ、おお夜よ、ぼくに返してくれ お前の偽りの幻を戻れ、戻ってくれ、輝きよ 戻れ、おお 神秘の夜よ!>
「希望のバラード」
フレデリク・ショパン作曲 17のポーランドの歌
Op.74より<のぞみ>
第1曲<のぞみ>は、従来わが国ではドイツ語訳からの再訳によって<乙女のねがい>として知られてきた曲です。歌詞にはポーランドの詩人、ヴィトフィツキが選ばれています。ショパンははじめこの曲をピアノと声楽のために書いたが、リストによってピアノ独奏曲に編曲されました。私たちのグループ名がsperanza=希望、期待、望み、願望という意味の女性名詞のイタリア語であるため、グループのテーマ曲を探していた時に、この曲を思い出しました。
<もしも私があの空の太陽なら、貴方のためにしか輝きたくないわ。
湖のためでも、森のためでもなく、だけどいつまでも永遠に、貴方の窓辺を、ただ貴方のためだけに。
私が太陽になれたらいいのに。
もしも私がこの木立の小鳥なら、他のどんな場所でも歌わないわ。
湖のためでも、森のためでもなく、だけどいつまでも永遠に、貴方の窓辺で、ただ貴方のためだけに。
どうして私は小鳥になれないの!>・・・と歌われます。
エドワード・エルガー作曲 <愛の挨拶>
イギリスの作曲家エルガーが、1888年にキャロライン・アリス・ロバーツとの婚約記念に贈った曲です。元々エルガーのピアノの生徒であったアリスは8歳年長(当時39歳)で、宗教の違い(エルガーはカトリック、アリスはプロテスタント)や、無名の作曲家と陸軍少将の娘という身分格差からアリスの親族は2人の仲を認めなかったため、反対を押し切っての結婚でした。今日、日本人演奏家の間でも、とりわけ女流演奏家のレパートリーとして人気の高い小品の一つです。
アイルランドの民謡 <ダニー・ボーイ〜ロンドンデリーの歌〜>
<ロンドンデリーの歌>として知られる旋律に歌詞を付けたものです。 このメロディーにはいくつかの詩がつけられているが、最も有名なのがイングランドの弁護士、フレデリック・ウェザリーの作です。元々は別の曲のために1910年に作られた詞だったが、それは広く知られるには至りませんでした。1912年にアメリカにいる義理の姉妹から<ロンドンデリーの歌>の楽譜を送られると、彼は翌1913年にその詞をこのメロディーに合うように修正して発表しました。
女性の立場で男性に別れを告げる歌として解釈できる内容だが、この歌は男性歌手によっても多く歌われてきました。また両親や祖父母が戦地に赴く息子や孫を送り出すという設定で解釈されることも多いです。今日はあらゆる楽器編成で演奏される有名曲です。訳詩は著名なものを載せます。
<おお ダニーボーイ いとしきわが子よ いずこに今日は眠る 戦に疲れた体を
休めるすべはあるか お前に心を痛めて 眠れぬ夜を過ごす 老いたるこの母の胸に
おお ダニーボーイ おお ダニーボーイ帰れよ
おお ダニーボーイ いとしきわが子よ たよりもすでに途絶え はるかなその地のはてにも
花咲く春はくるか 祖国に命をあずけた おまえの無事を祈る 老いたるこの母の胸に おお
ダニーボーイ おお ダニーボーイ帰れよ>
ショパン作曲 前奏曲第15番 変ニ長調 Op.28-15<雨だれ>
前奏曲第6番で、ジョルジョ・サンドの「回想録」中、次のような話を記しています。マジョルカ島ヴァルデモーザ僧院である暴風雨の日、ショパンを残して外出し、夜ふけに帰宅してみると、彼はまだ起きていてピアノを弾いていました。そのさい、軒端から雨だれが落ち、その単調な雨が、ピアノの奏する曲に反映していたというのです。そのときの作品がこの前奏曲だと思われ、サンドは「この曲は心を恐ろしく憂鬱につき落とす」といっています。これは<雨だれのプレリュード>についてではないかとする見方もあります。しかし、この曲の場合も大体はパリですでに書かれていたようです。<雨だれ>の名称のもととなった全曲とおしてほぼ一貫して打ち続けられる変イ音は、たしかに効果的です。
シャルル・フランソワ・グノー作曲 <アヴェ・マリア>
フランス人作曲家グノーが1859年に作った声楽曲です。バッハの「平均律クラヴィア曲集」の第1巻、第1曲の「前奏曲」を伴奏部に用い、それにグノーが一世紀以上も経ってから美しいメロディーを添えた。日本語の訳詩では<アヴェ マリア 神のめぐみに みちたる君 幸にあふるる君
おみなのうちに 君ひとりは イエスが母と なりたまいき
サンタ マリア サンタ マリア マリア
けがれし我を 憐れみたまえ 生くるこの日も 死する時にも
アーメン アーメン・・・と歌われています。>
モーリス・ラヴェル作曲 <亡き王女のためのパヴァーヌ>
ピアノ曲はパリ音楽院在学中に作曲した初期を代表する傑作であり、ラヴェルの代表曲の1つと言えます。諸説ありますが、ラヴェルがルーヴル美術館を訪れた時に展示されていた、17世紀スペインの宮廷画家ディエゴ・ベラスケスが描いたマルガリータ王女の肖像画からインスピレーションを得て作曲した、とされます。「亡き王女」という題名はフランス語で pour une enfante défunte となり、言葉の韻を踏む遊びから命名されました。ラヴェルによるとこの題名は「亡くなった王女の葬送の哀歌」ではなく、「昔、スペインの宮廷で小さな王女が踊ったようなパヴァーヌ」だとしています。なお、パヴァーヌとは、16世紀から17世紀にかけてヨーロッパの宮廷で普及していた舞踏のことです。優雅でラヴェルらしい繊細さを持つ美しい小品であり、ピアノ版や、ラヴェル自身の編曲による管弦楽版の他にも、多くの編曲者によるピアノと独奏楽器のデュオ、弦楽合奏など、様々に編曲され、コンサート、リサイタルの曲目やアンコールとしてしばし取り上げられます。晩年、ラヴェルが自動車事故により記憶障害が進行してしまった際、この曲を聴いて「この曲はとてもすばらしい。誰が書いた曲だろう。」と言ったという逸話もあります。
※主要参考文献:ショパン(音楽之友社)、暁子猫のブログ、ショパンの作品を鑑賞する・ブログ、フィーリ・HP、詩と音楽・HP、世界名歌選集(ドレミ楽譜出版社)、なかにし礼訳詩、wikipedia・HPなど。
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