はじめに
過去の出来事を再現することはできない。だからこそ裁判において、膨大な証拠や証言に基づく事実認定も絶対的なものではありえないという認識が手続法を発展させてきたのである。裁判で認定される事実は限られた要件事実だけなのに、それでも刑事裁判では結審後も事実認定を訂正するための再審請求が認められる。要件事実だけでは事件の全貌が明らかにならず、原因も解明できないので、重大な人権侵害事件では南アフリカ共和国の「真実和解委員会」のように、真実を包み隠さず供述、証言すれば刑事告訴からも民事請求からも免除されるとする真実委員会方式による審理がなされてきた。
歴史学もその例外ではなく、しかも歴史学には時効がない。学界の権威をもってしても、何千年も前の古代ギリシア文明がアーリア系の白人によって誕生させられたものだと断定することはできない。歴史命題の真偽は、提出された証拠物件、供述調書、証言記録についての尋問および反対尋問によって、ときには上申書や嘆願書をも勘案して、その信憑性が相対的に判断されうるにすぎない。しかもどんな歴史言説にも、判決に認められているような既判力はない。
そのような宿命を背負っている歴史学に社会的な意味が与えられてきたのは、それが人間の意識の継続という意味での記憶そのものを記録してきたのではなく、それを普遍化したものを記録してきたという普遍化の故ではないだろうか。その普遍化を可能にしたものが歴史的意識、歴史的理性、時代精神、ハビトゥス(癖)などの何れであろうが、一人ひとりの人間の無限に多種多様な生の記憶ではないものによって一つの文明として命題化されてきたことそのものに西洋の歴史学の意味があったのである。つまりその歴史学は、西洋文明、アフリカ文明、中国文明などのような文明の存在を前提にし、かつ出現させた。普遍化された歴史には、生の記憶が充溢しているわけではないので、断絶した記憶を取り戻すという意味でそれを想起することもできず、それゆえ生活のなかでその真偽を確かめるすべもなく、もっぱら研究や学習の対象とされるだけである。
また文明の普遍的性格は、それぞれの文明のうちに何か共通するものの存在を求める。それらの共通項は自文明の優位をそのうちに書き込み、国際連盟規約第22条1項の委任統治規定に象徴されているように自己中心主義的な植民地支配を「文明ノ神聖ナル使命」として正当化してきた。古代ギリシア文明以来の西洋文明を担ってきた人びとには何か知的で洗練されたものが共通にあるとされ、アフリカ文明の下にある人びとには共通に何か感情的で粗野なところがあると仮定されてきた。
文明論はその普遍性のうちにある同一性の故に、教条的で閉鎖的な「―主義 -ism」に還元されがちである。西洋近代においてその「―主義」は人種主義であり、したがって歴史学には人種主義が潜んでいる。かくして歴史学者は、他人種や他民族に有利な歴史的事実の信憑性を攻撃する弁論活動を闊達になし、自己に不利な記録や認定事実の書き換えに情熱を傾けるようになる。実際『ブラック・アテナ』は、古代史の研究書であると同時に、歴史学に潜む人種主義と植民地主義をあぶり出した文明批評の書でもある。
一人ひとりの人間の記憶の内容は、実践してみることによって真か偽か確かめられる。普遍化された歴史についてはどうか。歴史を構成する時間を過去、現在、未来と捉える西洋的な観念によっては、歴史の真偽を確かめられない。そのような歴史について突き止められうるのは、どんな時代精神によって普遍化がなされたかという「情状」の酌量だけである。その真偽が確かめられうるようになるのは、時間をミクロタイムとマクロタイムと捉えるアフリカの時間観念によってである。
1. 真とは
古代ギリシア人がエピステーメと呼んだ「真の知識」についてカール・ポパーは、「ほらふき男爵のトリレンマ」を使って問題を提起する。「トリレンマ trilemma」という言葉のうちの「-レンマ
-lemma」とは前提とか仮定という意味で、接頭辞「トリ- tri-」は数字の3で、「ジ- di-」だと2なので、「ジ-」が「-レンマ」の語頭に付けられると「ジレンマ
dilemma」(板ばさみ)となる。ポパーによれば、ある知識が真であることを基礎づけようとすると、次の3つの何れかの誤りを選択しなければならなくなるという。
第一に、何らかの知識の基礎づけを基礎づけるもの、その基礎づけを基礎づけるもの、さらにその基礎づけを基礎づけるもの…と無限に遡る「無限後退」。第二に、三段論法において大前提として仮定されたものを結論の基礎づけに循環論的に用いる「循環論法」。第三に、まったく基礎づけられていない仮定や推測のみに依拠して結論づけることによって基礎づけそのものを中断する「恣意的中断」である。
ところが「偽の知識」には意味がないので、知識には「真の知識」しかなく、「真の知識」とは何かという問題は、結局、「真とは何か」という問題に引き戻される。西洋近代において真とは、「…は真である」という真理述語に他ならず、言語表現にしか当てはめられないメタ言語であると捉えられがちである。ところが事柄の真理性が明らかでない限り、その事柄が理性に合致するか否かを知りえないし、したがってまた、文字上の意味が真であるか偽であるかも知りえない。
南部アフリカの伝統的な哲学原理である「ウブントゥ
ubuntu」にみられるように、「真とは何か」という問題は言語論に収まり切れないものであり、非言語としての現実の権力との関係で捉えられなければならない。というのは言語というものは、言語自身のために言語の枠内に止まっているものではないからである。したがってまた歴史学の知識も、決して貧困や格差など生活の諸課題から断絶・隔離され、社会的に無菌な真空状態で無機化されてしまってはならない。その点『プラック・アテナ』は、知識社会学の視点から歴史言説を政治・経済的な背景において批判的に見直している。
ウブントゥにおいては、ウブが存在論的な潜在性で、ントゥは認識論的な結節点と捉えられ、それらが結び付いたウブントゥは「生成する存在 Be-ing
becoming」となり、運動こそが「存在すること」の原理であると考えられている。この原理に従えば、「存在する」とは柔軟で開放的な「性 –ness」という条件において存在するということであり、これから「存在するべきである」ということに向けて存在しているという意味でつねに一つの「全-性
whole-ness」なのである。かくしてウブントゥにおいて、たとえば真理の対抗概念は、認識論の枠内での無矛盾性という西洋的な意味ではなく、道徳的な意味を持つものであり、その対極にあるのは「偽」ではなく「嘘をつくこと」だとされる。真理は認識と行動との同時的な合致と定義され、真理についても実践が重んじられているのである。
確かに「真理とは何か」についての捉え方は、文化や言語によって異なる。アリストテレスはその作と言われてきた『形而上学』のなかで、「有るものを有らぬと言い、有らぬものを有るというのが、偽であり、有るものを有ると言い、有らぬものを有らぬと言うのが真である」と述べた。またキリスト教哲学者アウグスティヌスの『告白』では、真理とは神の光に照らされて理性により直感されるものだとされている。そのような見方からすれば、ガーナのアサンテ族やアシャンティ族などのアカン諸族(以下、アカン)が42日からなるとしている1カ月を40日という意味の「アダドゥアナン
adaduanan」という言葉で呼ぶのは偽だとされてしまい、そのような呼び方で時間観念について何を言い伝えようとしているかを深く掘り下げてみる機会が奪われる。
アフリカ哲学の研究者クワシ・ウィルドゥによれば、アカン諸語にはそもそも「真理 truth」に当たる言葉がないという。だからといって、もちろんアカンの人びとに真理がないのではない。それには深いわけがある。仮に西洋近代の人びとのように真理という言葉を使って「真理とは~である」と力説しても、その人がそういう思いを述べているだけである。また「それは客観的真理だ」とか「絶対的真理だ」と力説してみたところで、それも一つの意見、つまりその人の思いなしにすぎない。
ある意見が自己の「客観的」で「絶対的」な思いなしと違うからといって否定されてしまうと、その意見だけではなくその意見を懐いている人間の存在そのものも否定されることになる。なぜなら意見は人間以外によって形成されるものではないし、またそれぞれの人間の違いは、その人が持っている財産の多寡、社会的地位の如何、皮膚の色、性別の違いのようなものによってしるされるのではなく、その意見によってしるされるべきだからである。つまり、差異が否定に取って代わられなければならないのである。自己の意見に含まれている曖昧さや矛盾は他者との対話において修正されうるものなので、どの意見も否定されるべきではない。だが、どの意見も同一だというのではなく、差異として迎え入れられるべきだということなのである。それによって、どの人間も存在を否定されることなく、差異として迎え入れられなければならない。
かくして真理についての意見はすべて「たんなる意見」である。それゆえ、かりに真理が「たんなる意見」と違うものだとしたならば、論理的には誰も真理を知りえないことになってしまう。そうなると結局、真理はなくなる。それでは真理をどう捉えたらよいのであろうか。例えばアカンは、真理を意見そのものの質量によってではなく、実践という視点から捉えてきた。
「真」の対抗概念を「真でないこと」という意味の「偽」と捉えることは論理的に正確ではあるが、それはいわば同一直線上の2点のどちらに位置するかを確認する思弁にすぎず、それによって何も生み出されない。それによっては「嘘をつくこと」の社会的な問題性を捉えることもできず、何の実践的な問題も解決できない。アカンは「口から発したことは行く手で待ち構えている」という格言で、言葉を語るだけでは意味がなく、それを自ら実践し、効果をあげたときに、遡ってその語りが意味を持つと言い伝えてきた。スピノザは『知性改善論』のなかで言葉について、それはたんなる表象の一部にすぎないので、多くの大きな誤謬の原因となり、しかも言葉は、人びとの好みと把握力に応じて構成されているので、知性のなかではなく表象のなかにある事物の記号でしかないと指摘している。だからこそ、知性のなかにのみあって表象のなかにはないものに「非物質的」といったような否定的な名称が与えられたのだという。そのような言葉が生まれるのは、既存の言葉を否定形に変えるだけなので容易であり、その容易さのため最初にその言葉を使った人間の頭に浮かんだのに違いないという。だが、そのような肯定なり否定なりは、事物の本性ではなく言葉の本性がもたらしたものであり、事物の本性を知らなければ、容易に偽なるものを真なるものと見間違えてしまうというのである。
アカンにおいて真と偽は、肯定と否定という同一直線上の対極としてではなく、むしろそれら両者の母体である差異として多産的・複線的に捉えられ、「たんなる意見」が「真」になるのは実践においてのみであると考えられている。そのような意味での「真」だけに耳を傾けるべきことを「耳は2つあるが、一つのことしか聞かない」という格言で言い表わしてきた。
2. 口承の信憑性
わたしたちにとって古代ギリシア史とは何か。それは西洋文明の先天的な卓越を定義してきたものではないだろうか。しかしそのような古代ギリシア史も決して「客観的事実」なのではない。なぜならそれは記憶そのものの記録ではなく、記憶を普遍化したものであり、無限に多様な生の記憶から取捨選択して普遍化するのを可能にするのは、偏見のような無垢な主観だからである。
『ブラック・アテナ』は、主観から逃れられない歴史言説の信憑性が何で測られるべきかを問いかけている。その著者マーティン・バナールが白人による人種主義の温床とみるアーリア・モデルを古代モデルから区別するものの一つは、ヘロドトスの『歴史』、カドモス伝承、ケクロプス伝承の信憑性をどう見るかである。伝承は筆記に較べ信用できないものか。
それについて考古学者ルース・エドワーズは、とくに前史について「伝承以外の史料」が伝承よりも客観的だと決めつけられがちだが、「伝承以外の史料」も、その解釈は考古学者により異なり、その時代の流行によっても左右され、それには伝承とまさしく同じ種類の限界があると論じている。
アフリカの伝統的共同体においては、集団の意思決定はコンセンサスでなされ、その執行にはすべての共同体構成員が参加でき、全員が政治家で公務員のようなものであり、しかも有効な決定の執行はつねに現在進行形の状態にあるので、自ずと記憶されており、そもそも筆記しておく必要性がほとんどない。聖書において筆記が現われるのは「モーセの十戒」が最初であるが、スピノザの『宗教・政治論』によれば、それは理性によって神の存在を把握する力のなかったヘブライ人のために授けられたのだという。そのなかで『コリント後書』第3章3節を引用して、「神の契約はもはやインキをもって書かれるべきでも石板のうえに書かれるべきでもなく、神の霊をもって心に書かれるべき」と述べられている。
文章であろうと口承や文様、記号、音楽、踊りであろうと、その意味についてのコンセンサスがなければコミュニケーションの役割は果たされえない。逆に、内容についてのコンセンサスさえあれば、単純な記号だけで伝わる。その実例の一つがアカンの「アディンクラ
Adinkra」(「さようなら」という意味)と呼ばれる単純な模様で、伝統的に葬式や法事のときに身に着ける布の柄にされてきた。「マテマシエ Mate
Masie」 というアディンクラは記憶の重要性を伝える「聞いたことは覚える」という意味の記号で、また「タムフォベブレ Tamfo Bebre」 は過去から学ぶことの重要性を伝える記号だという。
アフリカでは、書物が信頼できて伝承は信用できないとは考えられてこなかった。格言および伝説や神話等の口承がアフリカで重んじられてきたのには理由がある。
1. 口承では聞いたことを頭に書き込まなければならないが、頭に書き込んだことは忘れない。
2. 頭に書き込まれたことは自ずと生活の中で実践される。実践が社会を構築するので、重要なのは伝えられる内容の「冷凍保存」ではなくその実践である。
3. 身に付けられたことの次世代への口頭による伝達過程で、長老と若者との世代間関係を敬意に基づいて構築することができる。
古代ギリシアにおいてソクラテスが口承にこだわっていたことはよく知られているが、エチオピアのほとんどの格言は、プラトン、ピュタゴラス、アリストテレスなどギリシア哲学者の言葉であり、「ある賢人いわく」で始まる。「ある賢人いわく、実行した結果が善でなければその知恵は善ではない」。ある人間が賢いとされるのはその行為が賢い場合だけだという。したがって「ある賢人によれば」とは、「経験に基づけば」という意味である。そのことは「イーモ
imo」(知恵)についてのナイジェリアのヨルバ族の思想によってさらに明かされる。
おじいさんが頭痛薬の調合の仕方を孫に教えたとする。この段階で孫がえたものはまだ「イバボ igbagbo」(伝聞、信念)にすぎない。それがイーモになるのは、自ら薬を調合し、他者のために処方し、自分の目で薬効を確かめたときだという。伝承は現在の課題への効果の故にのみ価値があるとされるのである。効果のない伝承は自ずと忘れ去られる。それでは、個々の具体的な伝承ではなく、口承そのものの一般的な社会効果は何なのであろうか。
それはコンセンサス民主主義だと言う。なぜなら口承は、その意義と効果についてコンセンサスのあるものだけが伝えられるので、伝承はコンセンサスによって支えられていると同時に、コンセンサス原則を絶えず更新するからだという。神に姿かたちを与えられないのは、神についてのコンセンサスが絶えず更新されるのを確保するためだとされている。口承とコンセンサスとが絡み合っているからこそ、紛争の解決過程において当事者によって格言などの伝承が援用されると、それはコンセンサス、つまり和解によって紛争を解決しようとする意思の表示とみなされてきたのである。
それゆえ、西洋近代の「自由と民主主義」が差別や貧困をもたらすとみなされると、筆記された「古典」「名著」であっても伝承されない。そうみると、民主的な社会における伝承は信憑性が高く、逆に非民主的な社会で成功した書物は信用できないということになる。歴史言説という社会的行為の信憑性は、口承か筆記かではなく、どういう社会で語られたかによって測られるべきだということになるのである。
例えばAという歴史言説の信憑性が、何世紀かを経て他の歴史学者のBという言説によって検証され、その何十年か後にそれらがCという言説によって再検証されたとして、それらの信憑性を測るのは現在の経験である。古代ギリシア史のように、たとえAが何千年も前の歴史についての言説で、それについての学説がひっきりなしに展開されてきたとしても、その信憑性が測られるのは現在の社会においてなのである。つまり実際には、古代史についての如何なる歴史言説の信憑性も、現在のなかにある現在進行形の判断基準によって測られるのである。一方、アフリカにおいては、実生活において効果のないものは伝承されず、自ずと忘れ去られると明確に認識されてきた。
3. 捏造対策
それに対して口承データは年代確定が困難であると批判される。確かに口承の年代を「客観的に」確定することは困難であるが、その客観性を確保することは西洋歴史学においても多かれ少なかれ困難である。だが問題なのは年代ではなく、生起した事柄の順序なのではないか。例えばホメロスの『オデッセイア』が紀元前何年に書かれたか、アルファベットがギリシアに伝来したのは何年なのかが問題なのは、どちらが先であったかによって、その時代の口承の信憑性が左右されると考えられているからである。
アフリカでは、時間は数字ではなく事柄によって測られるが、口承からでもその順序はわかる。例えばオランダの宣教師であったプラシッド・テンペルスの『バンツー哲学』によれば、アフリカのバンツー諸族の口承において、神は最初「父なる家長」として種族や氏族の長にフォース(生命力)を与え、祖先は長子相続の順序に従って「父なる家長」からフォースを譲り受け、長老は祖先が人間にフォースを行使するための絆になり、人間は動物、植物、無機物に対してフォースを行使すると信じられているという。テンペルスはントゥをフォースと捉えていたが、フォースはむしろウブントゥにおけるウブの方であるが、それはともかく、事柄の順序はウブントゥの理念そのもののなかにも含まれている。
また例えばヨルバ族において、格言は長老が語り継ぐものとされているので、若者が長老の前で格言を援用するときは「長老たちの言葉に従えば…」と言い添えなければ「無礼である」とされ、また格言の援用を間違えば直ちに問題にされる。それでも口承は捏造され易いと批判されるが、バナールが『ブラック・アテナ』において指摘しているように、筆記も欲望や偏見の影響を受ける。スピノザの『宗教・政治論』によれば、人間がものごとを語るのに自己の判断を少しもまじえることなくたんにそれが起こった通りに語るということはきわめて稀だという。それどころか人間は、何か新しいことを見聞きする場合、相当注意していないと先入見に支配される。とくにその出来事がそれを見聞きする人自身に重大な意味を持つとき最も強く先入見に支配されるという。その結果、人びとは自己が筆記する記録書や物語書のなかにおいて出来事そのものを語るというよりは、むしろ自己の思いなしを語ることになるのだという。
かくして聖書の例で説明すれば、ヘブライ人たちは天動説の下で、日が長くなった現象を太陽と月がその運行を中断した奇跡として語ったのは、太陽を礼拝していた異教徒たちに対して、太陽が他の神の支配下にあり、その神の指図に従って運行したり静止したりしているのだと説明するのに役立ったからだという。それは異教徒たちを説得し改宗させるという宗教的動機ならびに地球は静止しているという当時の先入見から、事態を実際に起こりえたこととはまるで違ったふうに考え、かつ語ったのだという。バナールによればアーリア・モデルの下での古代ギリシア史は、西洋諸国によるアラブ・アフリカの植民地支配を正当化するという動機ならびに有色人種は劣っているという先入見から語られたものである。
もしこのような語りをする人びとに、何か心配することがあったとすれば、それは自己の誤りを他人に指摘され自己の権威を失墜させはしまいか、他の人びとの侮蔑の的になりはしまいかということだけであり、それを避けるため人びとはあらゆる暴力や情熱をもって自らの語りを擁護しようと努力するのだという。なぜなら人間というものは、理性によって考えることはもっぱら理性によってのみ擁護するのに反して、情熱によって信じることは情熱によって擁護するようにできたものだからだという。
エドワード・サイードの『知識人とは何か』を歴史の捏造の問題に当てはめてみれば、過失によるものであれ故意によるものであれ歴史が捏造されるのを阻止できる「知識人」とは、学界の内部において地位、名誉、報酬などをえている「専門家」ではなく、安易な公式見解や紋切り型の表現を拒み、権力の側にある者や伝統の側にある者による語りや行為を検証もなしに無条件で受け入れることに対し、世間にこづきまわされながら、どこまでも批判を投げかけるアマチュアである。したがってサイードの見方によれば、アマチュアから絶縁され隔離された歴史学は、捏造を予防することも暴くこともできない、ということになる。
アフリカでは、口承は生活のなかで日常的に活かされ、検証されており、しかも長老や言霊師などが守り伝えるべきものとされており、それは伝統的裁判の過程においても長老などによってチェックされるので、その捏造が長いあいだ見逃されることはありえない。かくして歴史言説の信憑性との関係において問題なのは、口承によるものか筆記によるものかなのではないのである。
4. 過去の力
歴史というのは記憶と違って、人間の行ないが時代精神などによって普遍化されて記録されたものであるが、時代精神とはそれぞれの時代における固定観念であり、思い込み、偏見、予断のような先入見である。ところがとくに人文・社会科学の分野においては、その時代の先入見に合致する言説が「科学的」「客観的」とされがちなのである。例えば18世紀以来のギリシア古代史研究は人種主義や植民地主義で着色されており、それと同系色の言説が「科学的」「客観的」とされてきた。資本主義社会における時代精神の形成には、政府の政策だけではなく商業的成功も大きく寄与する。
ところがスピノザが言うように、人間は「ものを賞賛したり非難したりするのに理性によって導かれず衝動によって動かされ、常に稀なるもの・自分の本性とかけ離れたものを憧憬する」。バナールによれば、現在のチュニジアのチュニスのあたりにあったフェニキアの沿岸都市国家カルタゴで行なわれていたという子どもの生贄の風習を誇張して描いたフローベールの小説『サランボー』の商業的成功が、アフリカ人は残酷で野蛮だという偏見を西洋に広めたのだという。この見方はスピノザの「稀なるもの・自分の本性とかけ離れたもの」としても説明されうるが、カルタゴは前800年迄フェニキア人の北アフリカ沿岸都市国家の首都で、ベルベル人もいたとはいえ基本的にフェニキア人の居住地であったという。子どもの生贄はベルベル人ではなくフェニキア人の風習であり、しかもポエニ戦争などで敵対していたローマ帝国による捏造とする説もある。このように「稀なるもの・自分の本性とかけ離れたもの」の憧憬は幻想を生み出しもするが、既存の定説に対する挑戦を生み出しもする。その挑戦の実例が、『ブラック・アテナ』である。それでは過去を想起するということそのもののなかにどんな意味があるのだろうか。
確かに過去を想起することによって、現在の生にメシア的な救済の力が付与される。というのは、ともに語り合えたかもしれない亡き人を想起することによって、あたかもその間に「秘密の契り」でもあったかのように、その人の周りに漂っていた空気のそよぎに触れ、人間はその人の期待を担って生きていること、それゆえ未来に救済の力が潜んでいることに気付かせられ、未来に希望を持てるようになるからである。過去は現在のありさまと結び付いてその一部になっているので、過去の出来事を想起しなくなれば、現在の人間に敬意を払うこともできなくなる。
したがって歴史的事実とは、それが何かの出来事との因果関係を確証するがゆえに歴史的事実とされるのではない。確かに人間には、ある事実の原因と結果がわかればその事実を「理解できた」と思い込む癖がある。だが、たとえ事実を因果関係として捉えて物語にしなければ「歴史」を成立させられないと言い張られても、また因果関係という考え方がなければ生きていくのが不安になると苦言を呈されても、因果関係が人間に固有なものであることの証明にはならない。ニーチェはそれを心理的な習慣にすぎないとした。ウィトゲンシュタインが述べているように、人間はその癖に逆らって事実をみていく必要があり、「なぜ」と問うのをやめたとき重要なことに気付くこともある。
むしろ歴史的事実というものは、何千年も隔てられた後の出来事によって歴史的事実となる。歴史は構成されるものなのであり、しかもその構成の場は現在なので、歴史学は出来事をたどることにより歴史の均質で空虚な経緯を受動するのではなく、現在から能動的に「穿つ」ものでなければならない。それによって時代の隔たりを開くことが可能になる。
アカンのオーチェアメ(言霊師)が持つ杖の先端に付けられているエンブレムの一つに「サンコーファ Sankofa」 (振り返ってつまみあげる)というのがある。それは鳥の形をしており、その頭は後ろを振り返っているが足は前を向いている。サンコーファにはアディンクラ
もあり、どちらも「温故知新」を意味しており、今の世代が過去の優れた考え方をピック・アップするために後ろを振り返ることのシンボルだという。だがサンコーファは、過去に回帰すべきことを示しているのではなく、過去は今日のわれわれにとっても有意性があることを示しているのだという。なぜなら過去のものであるということが必然的に無用であるとか、無関係であることを意味しているわけではないからである。
かくして歴史学とは「歴史的には…」と語り始められる歴史の経緯を打ち砕き、一つの時代を取り出し、その時代から一つの生を取り出し、それに始まりと終わりを与えて作品化することである。「歴史の概念について」と題するベンヤミンの論文によれば、そのような作品には一つの生のなした仕事全体が、そしてその仕事全体のなかにその時代が、さらにその時代のなかに歴史経緯の全体が入れられているのである。その際、どのようにして時代精神による呪縛を克服できるのであろうか。
ガダマーの『真理と方法』によれば、先入見を形成している「伝統」のなかにいる自己に呼びかけてくる歴史を解釈する際、一人ひとりがそれと出会うための「地平」という視点をもっている。だがそれは先入見に満ちている。しかも人間は先入見から免れることはありえず、過去のテクストを解釈するために過去の地平に立とうとしても、実際には現在の地平を過去の地平に重ね合わせて過去を現在の先入見に同化させる結果になる。それは過去がもつ差異をこそぎとる過去の忘却に等しい。そこで自己が別の地平に立ってみると、自己の地平に潜む先入見がみえてきて、先入見を問いただすことが可能になるのだという。
現在の地平を理解するには過去の地平に立たなければならず、過去の地平に立つには現在の地平を理解しておなかければならない。それらの地平を行ったり来たりして循環する「地平の融合」という体験によって、歴史についての無垢な「自己知」が破壊され、歴史はつねに解釈・再解釈され、決して歴史の終焉に帰結するヘーゲルの「絶対知」に還元されることなく、果てしなく未来を形成する過程にあるのだという。それゆえ伝統も、史料から「客観的に」発見されるものなのではなく、過去を現在に流れ込ませ、現在において能動的に創造されるものなのである。
歴史言説を規定していた時代精神が問いただされることにおいて、過去という絶対的他者が新たな差異として現在のなかに導き入れられ、地平が融合される。そのようにして能動的に構成された歴史は、もはやたんなる過去の遺物ではない。それは新たな差異によって現在の生を過去から問い、穿ち、脅かす物語となる。かくしてポスト・コロニアル時代におけるギリシア古代史は、アフリカ文明に対して現代人が懐いている先入見を問いただし、穿ち、脅かし、その空気に触れる融合を可能にするものでなければならない。それが「秘密の契り」の履行である。
5. ギリシア哲学の謎
アリストテレスとの「秘密の契り」を履行しようとすると、謎が多いのに気付く。アリストテレス自身による前4世紀の自著目録では総冊数は400程で、全体が3つに分類されており、「理論」のところに数学、物理学、神学、「実践」に倫理学、経済学、政治学、「創作」に詩、美術、修辞が項目として入れられていたが、そこには現在アリストテレスの代表作とされている形而上学や論理学の文献は入れられていない。前3世紀に作成された目録にも、今日アリストテレスの作と言われている「古典」は入っていない。それはアレクサンドリア大図書館の蔵書だけで目録が作成されたからであろうと説明されてきた。それらの「古典」の入った目録は2世紀頃プトレミーが編纂したアラビア語のアリストテレス文献目録で、千冊を超えるという。この数について、アリストテレスはかつて家庭教師として教えていたアレキサンダー大王から惜しみなく与えられた援助で参考書を購入でき、しかも好奇心が強く、何でも理解する才能があったので執筆できたのだと説明される。だが限られた生涯において、ギリシアで知られていなかった研究内容について、文献を読んで千冊以上もの本を書けるのか。しかも購入できるよう売られている本の内容を他の哲学者が全く知らなかったというのは不可解だ。また従来の説では、アリストテレスはエジプトに留学せず20年間プラトンに学んだというが、なぜ自然科学者が哲学者の下で20年間も学んでいたのか理解できない。プラトンはアリストテレスを教えられるはずがなく、知らないことを教えていたことになる。
ヘンリー・オレラによれば、アリストテレスはアフリカ留学を終えてギリシアに戻ると、ソクラテスとは違いエジプトで学んだことを書き記したのだという。西洋人は古代アフリカの哲学を自作と偽って「ギリシア哲学」としたと批判した『盗まれた遺産』(George
James, Stolen Legacy, 1954)の著者ジョージ・ジェームズは、アリストテレスの文章にはノート・テークの特徴がみられると指摘している。アリストテレスは、エジプトの図書館や神殿から略奪した書物でリュケイオンと呼ばれる学校を創り、弟子たちにそれらの書物を書き写させ、それらのうちのいくつかは自作ということにされたのだという。アリストテレスはリュケイオンで12年間教えたのち、ある聖職者によって不敬罪で告発され、アテネから逃れたとも言われている。
ジェームズによれば、タレス、ソクラテス、プラトン、アリストテレスなどの古代ギリシアの哲学者は、現在のルクソールのあたりにいくつかあった「ワセット諸神殿
Waset Temples」などに留学したという。たとえばプラトンは『国家』のなかで、ギリシア世界における哲学、幾何学、天文学の創始者であるタレスは、エジプトで神官たちに教育を受けたと書いている。同神殿はエジプト第18王朝のアメンヘテプ3世の治世、前1391年頃設立されたとされる世界最古の大学の一つであり、最盛期には8万人もの学生がいたという。ジェームズによれば、その学生の階級(学年のようなもの)には「普通人
Mortals」、「知識人 Intelligencies」、「創造人 Creator or Son of Light」の3つがあり、10の徳と7つの科目が教えられていたという。それらの科目は文法学、修辞学、論理学、幾何学、代数学、天文学、ミュージック(神との調和のための実践哲学)である。
『ブラック・アテナ』を批判した『ブラック・アテナ再論』(Lefkowitz & Rogers (eds.), Black Ahena Revisited, (Chapel Hill, 1996)に所収されているロバート・ポルターの論文によれば、『百科全書』の編者ディドロは、ギリシアからエジプトに留学してどれだけ役立ったかは疑わしいが、プラトン、タレス等すべてのギリシア哲学者がエジプトにやって来たと書いているという。アリストテレスの作と言われている『形而上学』には「数学はエジプトで始まった。というはエジプトでは坊主が暇だったから」とその生活ぶりを見てきたように書かれている。
なぜギリシア哲学は発祥地のアテネで卑しまれ、哲学者が処罰され、死か亡命を余儀なくされたのであろうか。なぜそれはギリシア人の「先天的才能」によってその後発展させられず、突然アリストテレスで終焉したのか。一方エジプトでは、哲学が口承で伝え続けられ、哲学者たちは尊敬されていた。
古代エジプトの人びとは「レクー Rekh」や「サイ Sai」という言葉を賢人や哲学者という意味で使っており、それが哲学者という意味の最初の言葉だという。一方、古代ギリシア人によってエジプト(人)は「サイス
Sais」と呼ばれていたが、「サイス」に「の of」という意味のエジプト語接頭辞「マ Ma」を付けると、現在ケニアやタンザニアに住んでいる「マサイ
Masais」となり、ケニア出身の哲学者ヘンリー・オレラは、ソマリアやマサイ(Masai)の人びとが古代エジプト人の祖先であったと論じている。またオレラによれば、古代エジプト王国のインホテップ(Impotep)、ホル=ジェド=エフ(Hor-Djed-Ef)、カゲムニ(Kagemni)、プター・ホテップ(Ptah-Hotep)が最初の哲学者であったとパピルス文書に記されているという。
知恵の書が彼らの金字塔(pyramids)であった。
そしてペンが彼らの子どもであり…
ホル=ジェド=エフのような人物がここにいるだろうか。
インホテップのような人物がいるだろうか。
彼らは死に、忘れられている。
だが彼らの名前は、記憶できるようその著作に残されている。
インホテップはエジプト第3王朝ジョセル王(前2668-前2649)の高官で、最初のピラミッドとされているサッカラの階段ピラミッドの設計士でもあり、ヘリポリスの高僧でもあった。ホル=ジェド=エフは第4王朝クフ王(前2589-前2566)の王子で、ギザのピラミッドの建設に関わった。女性では、第4王朝または第5王朝初期(前2584または前2465)の時代のペセシェト(Peseshet)がおり、「女性外科医長
imyt-r swnwwt」という称号が冠せられ、世界史における最初の女医であったといわれている。またペセシェトは葬儀を司る司祭でもあった。ディオップとともにアフリカ古代史を研究してきたコンゴ生まれのオベンガは、これらの人物が今日の哲学者に当たると論じている。
6. マート
古代エジプトは約35世紀間続いたが、その哲学に貫かれていた中心概念の一つは「マート Ma’at」(真理、正義、現実)であった。古代エジプトの社会に性差別も、農奴や奴隷も、刑務所や死刑もなかったのは、マートのお蔭だったという。マートはダチョウの羽飾りを頭につけた女神として描かれ、「ラー
Ra」(古代エジプトの太陽神)の娘またはラーの目であり、トート神の妻だといわれている。また最高の贈り物として、マートの形をした人形がファラオによって神々に捧げられる様子の絵が残されている。
マートは基本的に現実という意味で、すべての現実、つまり神聖なものや聖的なもの、宇宙、物理、政治、家族などすべてに関する網羅的で包括的な概念であり、宇宙のすべてがマートの表われと捉えられ、その哲学的な意味は正直、真実、正義、正当性であるとされていた。その包括性のゆえに、マートは整然とした一つの全体性を意味している。したがってマートは、論じるだけでは意味がなく、実践されなければ意味がないことをも示しており、一つの生き方でもあるという。それゆえファラオの国々の人びとは、トマス・ホッブズやジョン・ロックの「自然状態」におけるように、自己の欲望を満たすために殺しあう生活をしていたのではなかったのである。
オベンガによれば、マートは一人ひとりの人間に自己実現の機会と未来への希望とを与えており、古代エジプトでは個人の権利も認められていたという。だが人間は孤立して生きているのではなく、社会に属して生きているので、賢人であるためのキーワードは「沈黙」であるとされ、自己表現の権利は濫用されてはならず、マートの精神において行使されるべきものとされていた。実際、古代エジプトで主神とされていたアメン神(Amen)は「沈黙の主、沈黙の擁護者」と言われていた。マートは今日にあっても、様々な形でアフリカ各地の言語および哲学・倫理に引き継がれている。
ジョージ・ジェームズによれば、この哲学はエジプトからエーゲ海東部のサモス島に伝わり、サモス島から南イタリアのクロトーネやエレアに、それからピュタゴラス、エレア派、イオニア派を介してアテネに伝わったのだという。
その後、「ギリシア哲学」と呼ばれていたエジプトの哲学は、キリスト教神学の形成・発展に寄与することになった。ベルベル人であったと言われているオリゲネスは、「ギリシア哲学」とキリスト教とを融合させる試みにおいて、受肉した神の言葉という意味における「ロゴスとしてのキリスト」という見方を提示した。また「存在するものはすべて有形な存在をもつ」と述べたテルトゥリアヌスは現在のチュニスの生まれであり、キリスト教神学を体系化した。新プラトン派の創始者として知られているプロティノスはエジプト生まれである。
現在のエチオピアで1~6世紀にかけ、アラビア半島南部からのセム語系の人びとの移民や交易などによって栄えたアクスム王国は、現在のイエメンなどアラビア半島南部を支配下においていたが、同国でキリスト教がひろまり、4世紀にキリスト教が公式に承認され、キリスト教国となった。それは、ローマ帝国のコンスタンティヌスI世がミラノ勅令によって313年にキリスト教をやっと公認した時期と相前後していた。
一方ローマ帝国では、熱心な正統派キリスト教徒テオドシウスI世によって4世紀にはエジプトの学問も「ギリシア哲学」も異教とされた。『三位一体論』の著者アウグスティヌスは、現在のアルジェリア北東部のベジャイアの生まれで、新プラトン派哲学の影響下でマニ教からキリスト教に改宗したと言われ、古代キリスト教最大の神学者となった。記録に残されているなかで西洋初の女性哲学者とされる西暦4~5世紀のヒュパティアはアレクサンドリアで生まれ、女性に対する偏見の研究で草分けとなったが、暗殺された。その後6世紀には、皇帝教皇主義のユスティニアヌスI世によってアレクサンドリアのアカデメイアも廃止された。その学問を守り続けようとした人びとは、アフリカ、アラビア、小アジア各地に逃れ、秘儀としてそれを発展させていったという。
ムーア人と呼ばれる北アフリカのアラブ人とベルベル人との混合民族が8世紀にスペインに侵攻したとき、かれらによって守り続けられていたエジプトの学問がヨーロッパに伝えられ、ムーア人がスペインなどに設立した学校や図書館は中世ヨーロッパ全体に知られるようになり、アラビア語によって哲学や自然科学が広められたという。かくしてロジャー・ベーコン、ケプラー、コペルニクスなどの科学者は、アラビア語やベルベル語の文献から学ぶことができたのだという。
確かにアフリカにはかつて生贄の風習もあったが、マートは実践を求めるので、欲望を満たすための自己中心主義的な殺戮は正当化されえない。マートの理念はングニ諸語の「ウブントゥ
ubuntu」、ソト語の「ボソ botho」、ショナ語の「フンフ hunhu」などのようにアフリカ各地で受け継がれてきた。それはまた、イスラームにおける「タウヒード
tawhid」とも連続している。例えば黒田寿郎は『イスラームの構造』(書肆心水、2004年)において、タウヒードを等位性、差異性、関係性の「一化の原理」と捉えている。タウヒードの発展に対しては、エジプトのイブラーヒム・アルラカーニーやアルジェリアのムハンマッド・ユースフ・アルサヌーシーのようなアフリカの研究者も貢献したといわれている。それではアフリカの伝統的哲学において、歴史はどう捉えられてきたのであろうか。
7. 時間とは――ササとザマニ
東アフリカのスワヒリ語には個人の生の時間「ササ
sasa」とそれが共同体に回収された神話的な時間「ザマニ zamani」がある。その違いは西洋における時間のような単位の多い少ないではなく、私的領野と公共性との違いである。
ケニアの哲学者で宗教学者のジョン・ムビティの1969年刊『アフリカの宗教と哲学』によれば、アフリカの伝統的共同体において時間は事柄から成り立っており、抽象的な数字だけで捉えられることはないという。日が昇るという現象が重要なのであって日の出が何時かは問題ではなく、夜については寝るということが重要なのであってそれが何時かは重要ではないという。つまり時間は、数字として意味があるのではなく、事柄との関係において初めて意味を持つようになるとされているのである。
ウガンダのアンコーレ族は牛の世話を目安にして、1日を朝の乳搾りから寝る前の乳絞りまでの8つの段階で算定する。したがって暦も、数字だけの無意味な表ではなく行事表である――暑い月、初降雨の月、除草の月、豆収穫の月、狩猟の月…。いつ狩猟に旅立つべきか、獲物を持って帰れるかが問題なのであって、その月の長さが25日になるか35日になるかは問題ではないのだという。1年については、農耕社会では季節ごとの農作業を伝える農業暦が作られ、赤道付近ではいくつ雨季と乾期を過ごしたかで知られるので、1年が350日ということも390日ということもあるという。アカン諸族の伝統的なカレンダーは「アダドゥアナン」(40日)と呼ばれる42日間が基本単位とされ、それが9回繰り返された378日間が1年とされてきた。
南アフリカの哲学者モゴベ・ラモセによれば、アフリカ哲学においては数字としての時間によって人間が作られたのではなく、人間が時間を作るのだという。そうみると、時間を生活のなかの事柄で測るのは自然かつ論理的である。だが西洋哲学においては、時間のなかで生きることが優先され、時間は埋められるべき隙間としてすでに存在している。だからこそ西洋では、死までの隙間がまるで忌まわしい空白であるかのように扱われ、その空白を埋めるために日記をつける習慣が普及するのだとラモセはみる。アフリカでは、時間に隷属して、時間に追われたり、時間をもて余したりして生きるのではなく、むしろ時間を活かすように生きるのだという。
ムビティによれば、アフリカの言語における時制は長い過去と現在とから成っており、未来はほとんどないと捉えているという。というのは、未来の事柄はまだ起きていないから認識の対象となりえず、それゆえ時間として認識することもできないので、未来を考えることに意味がないからだという。確実に起こりそうなことや自然現象のリズムにそった事柄は「潜在的時間
potential time」であり、現実の時間ではないと捉えられるので、未来ではない。実際には起こらなかったことやすぐには起こりそうもないことは「非時間
no-time」とされる。つまり時間は、「すでに起きた事柄」「現に起きている事柄」「まさに起ころうとしている事柄」から成っているのだという。現に起きていることは次々と過去のものとなっていくので、現実の時間は現在と過去だけであり、人びとは未来のことではなくすでに起こったことを気にとめるのだという。ムビティは東アフリカの諸言語には何十年も先の遠い未来を表わす単語も表現もないという。スワヒリ語では時間はササとザマニ
からなるが、ササとは2年先位までの未来にまさに起きようとしている事柄、現に起きている事柄、たった今経験したばかりの過去の事柄の何れかである。それには西洋近代社会における現在という観念に似たところもあるが、じつは異なる。
ササはその記憶がまだ生々しい事柄か、まさに経験しようとしている事柄を意味しているので、個人に関わりの深い時間である。だがそれは、一定の長さの単位で一律に測られうるものではない。長老のササは若者のササより長く、共同体のササは個人のササより長い。ただ、ある事柄がササであるためには、個人であれ共同体であれ、自ら経験していなければならない。ササの現在の経験というものは、2年位までの未来と、遠い過去、つまりザマニとに及ぶと考えられており、したがってムビティは、ササをたんなる現在時制としてではなく、ミクロタイムとして捉えている。このようなミクロタイムという捉え方は、実存主義の創始者とされるキルケゴールが『不安の概念』において、瞬間というものを永遠的なものと時間的なものとが互いに触れあい、矛盾し、極端に対立する場として捉え、そこにおいて人間の生きる自由が開かれ、それゆえ瞬間は個性的な「単独者」として人間の自由が特権化される唯一の時間として捉えていたことを想起させる。
一方、マクロタイムと呼ばれるザマニもたんなる過去時制ではなく、現在も未来も包摂する。ザマニはササと重なっており、両者の間にはっきりした境界線があるわけでもなく、峻別できない。ただそれらの間には、ササのなかで現実化されない事柄はザマニには入れないという関係がある。ザマニはそれ以外のあらゆるものを溶かし、吸収する万物の貯蔵庫だとされている。
ササもザマニも質量を持っているが、その大小、長短、多寡はそれぞれの事柄によるとされている。ササは個人を身近な環境に結びつけ、意識される「生起の時間」であり、ザマニはササの出現を可能にし、その存在に保障を与える「神話の時間」でもあるという。格言、伝説、神話などの伝承もザマニに貯蔵されている。
南部アフリカのソンガ族の格言によれば、「過去は遠く離れている」と同時に「昨日は過ぎ去らない」という。またモザンビークの人びとは、過去というものについて「その全体性と複雑さをそのまま受容する」のだという。そしてムビィティによれば、東アフリカでは人間の思想と行動の焦点はザマニに当てられ、ササはザマニに向かって動くので、歴史はササからザマニへと遡る。「黄金時代」もザマニにあり、決してササにあるのではないという。
アフリカでは伝統的に2年を超える未来が見通されることはないというムビティの見方に対して、それではかつてアフリカに大帝国が樹立されたことを説明できないし、彼自身の「潜在的時間」が無限な未来への窓口になっているのではないかという疑問が提起されてきた。それに対しムビティは、1990年刊行の『アフリカの宗教と哲学
第二版』において、「第三章 時間の観念」の最後の方に「実をつけるのに4~5年もかかる果物の樹を植えるし、10歳の子もいつかは結婚する(それがもう10年、15年かかったとしても問題ではない)」と新たに付け加えたが、アフリカの未来観についての基本的な見方を変えてはいない。
アカン出身の哲学者クワメ・ジェイチェイによれば、ムビティがアフリカの時間概念を解明するために依拠したのは、東アフリカのカムバ族とキクユ族の動詞の時制だけであり、西アフリカのアカンには未来の観念があるという。その格言にも「死ぬのは病のせいではなく、ときが来たせい」というのがある。つまり人間は不死ではないのでその未来は限られているが、「ベレ
bere」といわれる時間概念そのものに限りはないというのである。確かにムビティが言うように、時間は具体的な事柄と結び付いてはいるが、しかしジェイチェイによれば、事柄自体が人間に時間の認識をもたらすのではなく、仮に何の事柄もなかったとしても時間は存在し、それが事柄の発生に日付をつけるのだという。お祭りがA、B、Cあったとしよう。Bの前にAが催され、CはBの後に催されるという言い方は、事柄以前の時間の存在を前提にしている。ムビティが言うように、確かにアフリカでは時間は事柄との関係において測られているが、事柄で時間が成り立っているのではないというのである。もし事柄が時間のなかにおいて起こるのでないとしたら、事柄を時系列で考えることができなくなり、農作業の年間スケジュールも作れなくなる。またアカンでは、誕生日がどの曜日かによってその人の性格が決まると信じられているという事実も、一人ひとりの誕生という事柄の前に誕生の曜日によって性格の特徴を振り分ける時間というものがあることを示しているという。アカンの格言には「地球は空間的に広いが、神は時間的にもっと長い」というのがあり、そこでは人間を創造したとされる神が時間にあり、人間以前に時間のあることが暗示されている。この意味における時間は、数字だけで測られる西洋の時間とは異なるが、そこに未来の余地がないわけではない。
実際、未来に関するアカンの言葉には、「将来には」という意味の「ダアチェイ daakye」や「いつの日か」という意味の「ダ・ビ da bi」のように限定された未来をさす言葉だけではなく、「永遠」や「永久」という無限な未来をさす言葉として「ダア
daa」「ダアペム daapem」「ベレサンテン beresanten」「アフェボオ afeboo」がある。未来についてのアフリカの観念が正確には何であるかはともかくとしても、アフリカの時間概念が西洋近代の時間概念と異なることは明らかである。
おわりに
ササとサマニのどちらが西洋近代の歴史により似ているかと問えば、ザマニの方ではあるが、個人や共同体によってササとして実際に体験されていないことはザマニに入れられることはなく、ザマニに入れられた体験でも、後の実践において社会的効果をあげたものしか次の世代に伝えられないので、西洋的な歴史学とは違う。つまり歴史とザマニとは、体験という要素において異なるのである。ササで体験されないことはザマニに入れられず、ザマニとして残されるのは実践で社会的効果をあげた伝承だけである。
要するにアフリカでは、ウブントゥなどに集約されている贈与・歓待の理念に向かう効果のあるものは伝承され、逆にその理念に反するものは捨て去られるべきとされてきたので、西洋的な歴史学に価値は認められてこなかった。そこから、西洋で歴史研究や歴史教育が何のために必要とされてきたのかが問いただされなければならない。『ブラック・アテナ』はそれを根源から問いただしている。
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