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*書評*

「ブラック・アテナ-―古代ギリシャ文明のアフロ・アジア的ルーツ―I 古代ギリシャの捏造 1785−1985」

マーティン・バナール著 片岡幸彦監訳 新評論社刊 

欧米世界の自己認識に対する挑戦             黒田 壽郎

アフリカは常に新しきものを提示してやまない。

フランソワ・ラブレー

 1985年に刊行されて以来欧米読書界で激しい論争を巻き起こした注目の大著が、ついに邦訳で刊行される運びとなった。古代ギリシャの実態の解明のために、さまざまな角度からなされた数多い学術論議を問題としている本書は、かなりな英語読みにとっても難解であるとされている。先ずは訳者たちの努力に敬意を表する次第である。

本書は、18世紀から20世紀の後半に至る時代に提示された上述の主題に関する専門家、研究者たちの諸見解に対する、著者バナールの詳細な総括といった体裁をとっている。ギリシャ世界の成立に当たって、隣接するフェニキア、エジプト等の異質の要素の影響が存在したか、それとも北からのアーリア系の影響はあったにせよ、ギリシャの栄光はそれ自身によるものなのか。議論は大別して二つに分かれるが、歴史的に見れば17世紀における前者の優勢以降、次第に秤は後者に傾き、19世紀になると自己中心的なギリシャ至上主義が突出してくる。現在では徐々にその揺り戻しの兆候が現れつつあるが、バナールはその最先端を歩んでおり、そのような角度からギリシャ優越主義の堅固な牙城に、鋭い批判を浴びせかけているのである。

現代の欧米世界にとって、ギリシャは掛け替えのない精神的故郷である。ギリシャ的なものの優越性は、最近の数世紀、つまりヨーロッパの世紀における彼らの政治的覇権を根底から支える精神的な支柱となり、そのようなものとして国際的な地歩を築いてきた。近代西欧的と一括されるものが、ここ数世紀に果たしてきた貢献には計り知れないものがある。しかしその過度な欧米中心主義が限界を呈しつつあるのも、疑いのない事実ではなかろうか。文化、文明が自らの優越性を過信し、専ら内なる世界に沈潜するばかりで、外部への視線を閉ざし場合、その自家中毒的症状は、内外を問わず至るところで噴出することは、歴史的経験の示すところである。

古代ギリシャの真相の解明という試みは、遠い日本で生きるわれわれにとっては、無縁な営みと見なされがちである。しかしこの主題は、世界に冠たる欧米世界の精神的故郷のあり様、つまりそこに生きる人々の自己認識の問題と深く関わっているだけに、周辺地域のわれわれにとっても決して他所事ではない。古代のギリシャ像を創り上げるに際して、欧米の知識人が用いたさまざまな術数、それによって彼らが確立した価値観は、まさに国際社会を経営するに当たって用いてきた手法、理念と相似形をなしているのである。本書で取り上げられている古代ギリシャをめぐる欧米の知識人たちの論争は、観点を変えればそのまま彼らの自己認識のかたちを示している。その意味で遠い古代に関する論争は、今のわれわれにとっても極めて刺激的である。

排外的な自己中心主義は、自らに関する自信のあまり、外部に対する視線を閉ざしてしまう。そればかりかバナールが指摘するように、「19世紀にギリシャが賞賛の対象となるにつれて、ギリシャそのものの歴史的資料も軽んじられることとなる」のである。そもそも文化、文明は、それ自体で自己完結し、自立、自存するものではない。それはさまざまな象限、位相で異質なものと接触、交流しながら自らを活性化させることを本性としている。しかし今われわれは、囲い込みの論理に基づいて強固に確立され、生活世界に深く浸透した欧米至上主義の弊害に対処することを迫られている。問題の根源にあるものはギリシャ至上主義に象徴されるような、欧米中心主義であろう。欧米の内部でもピエール・ルジャンドルの「ドグマ人類学総説」(西谷修監訳 平凡社)のような、内からの脱中心化の試みが始められている。このような動きと相まって、本書は欧米文明の臨界を探るという最も現代的な企てにとって、刺激的で、貴重な一冊であることは疑いない。

       

 

『図書新聞』2007年6月30日号掲載
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