私は古代ローマ史、特にローマの地中海世界支配と北アフリカの関係について研究しており、そのような立場からバナールの『ブラック・アテナ』についてコメントしたい。1990年代に「アフリカの古代都市―カルタゴ」(『岩波講座世界歴史』第4巻所収)という論文を準備中に『ブラック・アテナ』を読み、大変刺激を受けた。ポエニ戦争をはじめとするローマ帝国の成立史を考える上でフェニキア人の社会や北アフリカの古代諸王国(ヌミディア、マウレタニア)等、いわゆる古典古代史に還元できない諸要素を重視する必要があると痛感しており、バナールの問題提起には共感できる点が多い。
ただ、今回、第1巻の日本語訳が出版されたのを機会に、1〜2巻を再読してみて、方法論的に距離を感じる所もいくつかあり、むしろその点を整理して示すことが、『ブラック・アテナ』とギリシャ・ローマ史研究者の間の対話の第一歩となると考えた。「距離」を感じた原因の幾分かは、私の研究テーマである「古代ローマ史」という枠組自体が、バナール風に言うならば、いかに緩和された形にせよ、広義の「アーリア・モデル」を前提としている面があるからかもしれない。
バナールが『ブラック・アテナ』においてめざしたと思われるものは、私見によれば次の三点に要約できる。
@「アーリア・モデル」によって「脱中心化」された古代ギリシャ史をエジプト・地中海という「中心」の歴史に置き戻したこと
A「アーリア・モデル」の登場を近現代のヨーロッパ植民地主義との関連で見ていること
B「アーリア・モデル」を単に批判するだけではなく、「古代モデル」、すなわち古代ギリシャのアフロ・アジア的ルーツの実証を特に第2巻で試みていること。
これに対し、私が感じる疑問点、ないし、バナールに質問してみたい点は、次の三点である。
@ギリシャ文明がエジプトやフェニキアの影響のもとで形成されたと主張しているが、その際、なぜ言語的ないし人種的ルーツを中心に取り上げるのか? ギリシャ文明を「アーリア系」の独占物から、古代エジプトなど、より広い人類文明の文脈の中に取り戻すという論点は理解できるが、なぜ、エジプトからギリシャへの文化的影響があったという言い方ではなく、ギリシャ人・ギリシャ文明のルーツがアフロ・アジア系だという点を強調しようとするのか?
Aギリシャ・ローマ文明の社会経済的な構造、その抑圧的でもある側面―たとえば奴隷制―の分析が欠けていないか?バナールの言う「アーリア・モデル」の圏内にある19〜20世紀のギリシャ・ローマ史研究は同時に奴隷制、都市国家の土台にある「共同体」の構造と支配・被支配の関係等についても明らかにしようとしてきた。ギリシャ・ローマ文明のそうした側面は、「古代モデル」に復帰するとすれば(あるいは「改訂版古代モデル」においては)どう説明されるのか?
B「海を越えての植民」と「陸づたいの移動」の区別・評価をめぐる問題。古代において「海を越えての植民者」は、陸づたいの移住者あるいはその土地の先住民より、先進的・「エリート」的な存在と見なされたと思われる。ローマなど西地中海の古代国家・諸民族がギリシャあるいはトロイアからの移住を主張する起源伝承を持っているのも、こうした価値観の反映であろう。そういう意味では、ギリシャ自体について「海を越えての移住」の影響を重視する「古代モデル」は、(近代版の北方からの「陸づたいの移動」伝承とも言える)「アーリア・モデル」よりも、より「英雄」中心史観と言えるのではないか?近現代における植民地主義と表裏の関係にある「アーリア・モデル」への批判の試みが、古代における先進文明(エジプト・フェニキア)による征服・植民という要素の重視という結論に至るのは、矛盾しているように思えるが、どうであろうか?
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