G
Global Network 21
グローバル・ネットワーク21
本文へジャンプ

*論説記事*
『ブラック・アテナ』古代史からの問いかけ

                                     幸泉哲紀                               

 

待望の『ブラック・アテナ』第1巻の日本語版が刊行される。ギリシャの女神アテナの肌が黒かったことを示唆する『ブラック・アテナ』は、1937年ロンドン生まれで、東洋学の学位をもつマーティン・バナール著の「古典文明のアフロ・アジア的ルーツ」という副題をもつ全4巻からなる書で、これまで3巻が出版されている。考古学的な考証を行った第2巻の日本語版は、『黒いアテナ』として既に刊行されている。しかし、世界の学会・論壇をゆるがし、世界史の通念をくつがえし、歴史に残る問題の書として注目されたのは、「古代ギリシャの捏造」という極めて挑発的な副題をもつ第1巻である。

 

『ブラック・アテナ』は1987年に第1巻が出版されるやいなや、古代史の専門家を中心とする学者から激しい批判を受け、その批判に反論するバナール、さらには他の学問分野の専門家をも巻き込んで「ブラック・アテナ論争」が学会で繰り広げられることになる。論争の出発点は、バナールが「アーリア・モデル」と呼ぶ、西洋文明の源流になっている古代ギリシャ文明をインド・アーリア系のギリシャ人が築いたものとする世界史の通念は、進歩主義、ロマン主義、人種主義という時代精神を背景に19世紀ヨーロッパの知識人が捏造したものであるという、第1巻で展開されるバナールの主張である。19世紀まで支配的であったのは、バナールが「古代モデル」と呼ぶ見解である。それは、優れた哲学や芸術、民主主義的な都市国家などに代表されるギリシャ文明は紀元前1500年前後に起こったエジプト人とフェニキア人による植民地化の影響を受けて興隆したとする、ヘロドトスなど古代の歴史家の見解である。古代史の専門家は、古代の歴史家の見解は信頼するに足らない神話だと批判する。これに対してバナールは、第2巻と第3巻で考古学や言語学における最新の研究成果を取り入れつつ、古代の歴史家の見解はある程度信憑性があるとする「修正古代モデル」を展開している。

 

 学術書として書かれたものであるにもかかわらず、『ブラック・アテナ』は一般の読者からも大きな反響を呼ぶ話題の書となった。その理由は、西洋文明の起源に人種的に黒人に属すると見られるエジプト人とユダヤ人系のフェニキア人の貢献があったとの主張である。それは、西洋文明は、ギリシャ以来、白人が築いてきた文明であるという西洋世界で通念となっていた文明観に挑戦し、アメリカを始め、現在の西洋世界に根強く残る人種差別をめぐる論争に火を注ぐ主張であった。しかも西洋文明の誕生における黒人の欠かせない役割を主張するこの書は、黒人のアフリカ至上主義者によってではなく、イギリス生まれの白人の学者によって書かれたものなのである。

 

話題の書『ブラック・アテナ』は、日本語を含め、10ヶ国語を超える言語に翻訳され、それとともに「ブラック・アテナ論争」は収束するどころか、世界に拡がっている。21世紀の世界に生きる我々としては、古代史に関する「ブラック・アテナ論争」から何を受け止めるべきであろうか。それは、原理主義的な文明観への戒めである。「白人が築き上げてきた西洋文明」という見解は、18世紀から19世紀にかけヨーロッパが世界に君臨するようになる時代を背景として出てきた見解であり、文明間の絶えざる接触という歴史的事実を無視した白人中心主義の文明観である。世界的な規模で多くの社会集団間の接触がますます拡大し、「文明の衝突」が憂慮される今日こそ、一つの文明をもって他よりも優れたものとする原理主義的な文明観から脱却しなければならない。『ブラック・アテナ』が示唆するように、どの文明も他の文明との接触のなかで何かを学び、吸収してきた「混成文明」なのであり、長い目で見れば、文明の歴史とは相互育成の歴史なのだとする見解こそ、21世紀の世界に求められる文明観だと言えよう。

 

毎日新聞4月27日付夕刊掲載

   Copyright@GN21. All rights reserved.