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Global Network 21
グローバル・ネットワーク21
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グローバルネットワーク21『ブラック・アテナ』出版記念シンポジウム 
 京都タワーホテル 200758

板垣雄三
(東京大学名誉教授)

このたび、ついにマーティン・バナール『ブラック・アテナ』第一巻の日本語訳が世に出たのは、まことに喜ばしい限りで、翻訳・出版のため努力された関係の方々に心からのお祝いを申し上げます。本日、刊行記念シンポジウムが開かれるにあたり、この本の出版は日本社会にとっても画期的な事件だということを力説したいと思います。

10年程まえ片岡先生からGN21の活動について意見を求められたとき、即座に「『ブラック・アテナ』の翻訳を」とお勧めした経緯から、こうして挨拶をする役目がまわって来ました。私はイラク戦争がはじまった年に出した『イスラーム誤認』の中で、待ちきれない思いで邦訳の刊行を予告したものです。『インパクション』という雑誌の最近号に、パレスチナ人作家でイスラエル共産党機関紙編集長だったエミール・ハビービーの『悲楽観屋サイード…』というアラビア語作品の待望の邦訳がついに現われた話にあわせて、バナールの『ブラック・アテナ』第一巻の待ちに待った翻訳が出現するというニュースを特筆した文章を胸躍らせて書きました。

そんな私の思い入れは、1980年代を通じて、知り合いのエジプト人社会学者アンワル・アブデルマレクから彼の友人マーティン・バナールの仕事ぶりを知らされており、「古代モデル」・「アーリアモデル」・「改訂古代モデル」の試論にも早くから接して、『ブラック・アテナ』が成り立つ過程を知っていたからです。その頃、私は東大駒場の教養学部で教えていましたが、当時私の講義を聴いた学生は、著者の名はもちろん、『ブラック・アテナ』原著の要点を知っていたはずです。やがて湾岸戦争が起こりますが、その舞台はヘロドトス『歴史』の舞台でもあり、湾岸戦争中もその後も『ブラック・アテナ』を手がかりとする思考転換の必要についておおいに吹聴しました。一般には手が届かなかった『ブラック・アテナ』が、このたび読みやすく理解しやすい日本語になって出版されたのは、真実、こころ励まされる出来事です。

マーティン・バナールは1975年が重要な転機の年だったと書いています。たまたまその年5月、私はニューヨークでユダヤ人諸団体によるSalute to Israelパレードの模様を観察していました。さまざまなグループがイスラエル国家支援を表明する大デモンストレーションです。五番街をパレードの後、参加者の一部少数がセントラルパークに移動し、ベトナム反戦集会に参加するのを、私は興味深く眺めていました。イスラエル万歳を叫ぶ人がベトナム反戦派でもあるという屈折した結びつき。しかもそこには、パレードと別系統で、イスラエル国家に距離をおき批判的なユダヤ人たちもいる。バナールはもともと中国の政治思想の専門家ですが、ベトナム戦争は、彼の学問のあり方を含めて、彼の生き方に深い影を落としました。その結果、バナールのようにヨーロッパ中心主義批判にむかう人物が出てくるかと思うと、逆に、ウォルフォビッツのようにネオコンと化して反テロ戦争の推進者になる人も出てくる。人間どんな方向に顔を向けて進むのか、一体それはいかにして決まるのか、不思議と言えば不思議なことです。

『ブラック・アテナ』第一巻の序文でも述べているように、バナールにとって、中国とエジプトが研究の中心テーマであり、中国のことを研究しながら同時に日本とベトナムについても研究していたのです。彼の眼には、中国という大文明があり、その周縁に日本やベトナムがあるのでした。これと似た構造で、エジプトが代表する古代オリエントの大文明があり、その拡がりの中に古代ギリシャがあったことになる。このようにギリシャと日本をつなげて考えるところが、彼にはあります。日本では、伝統的に世界は本朝・唐土・天竺という三要素から成るとみるいわゆる「三国」意識があり、その中で日本のユニークさを探し求め、殊に中国との違いにこだわる考え方がつよく作用してきたのでした。だから、今回『ブラック・アテナ』第一巻の日本語訳が現れたのは、単に日本人が地中海をめぐる古代文明に知的関心を拡げたというような意味を持つだけではありません。ギリシャと日本とを結ぶ内的つながりにも目を向けることが求められるようになったのです。この翻訳は、日本社会自身が日本をどう考えるのか、日本社会をみずから考え直すことにもつながる仕事なのだと思います。

マーティン・バナールの知のかたち、学問のかたちを論じるうえで、ジョゼフ・ニーダムの存在を忘れることはできません。ニーダムはもともと形態発生を化学的に解明する生物化学者だったのですが、1930年代に中国語を勉強して中国の科学史に手を染め、第2次大戦中は英国大使館科学顧問として重慶を拠点に中・英科学協力オフィスで働き、戦後はケンブリッジ大学の「中国の科学と文明」という壮大なシリーズの研究・著作に取り組むようになりました。最初は1巻本刊行の計画がどんどん拡大していって1995年没後も止むことがないスタイルは、マーティンの仕事ぶりに受け継がれます。ユネスコ設立に尽力したニーダムは、1950年レヴィストロースらと協力して「人種」という言葉を学術用語からはずすことを主張しました。革命中国との関係の強化に奔走し、朝鮮戦争で米国が使った生物化学兵器の調査にあたるなど、英国では彼は中国びいきの政治に偏向した学者と見られたりもしました。だが、スコットランド人ニーダムは、そんな批判も気にせず、文明研究のあるべき本道を歩んでいると自負したのでした。

マーティンの父、ジョン・デズモンド・バナールは、ニーダムとほぼ同年のケンブリッジ出身の物理学者で、そのすぐれた業績とひろい見識により英国の科学行政にも大きな足跡を残した人です。アイルランド生まれのユダヤ人で、1933年まで英国共産党の党員でしたが、その後も思想的には初志を貫きました。科学者運動・平和運動に熱心に取り組み、科学の社会的役割につよい関心を向けて、『歴史の中の科学』4巻をはじめ、「科学と社会」や「生命の起源」に関する多数の著作を残しました。その多くが1950年代、60年代に邦訳されたので、バナールといえば日本でも父親が有名なのです。レーニン平和賞をもらった人物でしたし、ジョリオ・キューリーの後を継いで世界平和協議会の会長もつとめた人です。息子マーテインが知識・学問と政治とのつながりをいつも考えているのは、父親の影響を抜きには考えられません。

マーティンは母親マーガレット・ガーディナーの影響もつよく自覚していますが、同時に、母かたの祖父の存在も見落とせないのです。祖父アラン・ガーディナーは著名なエジプト学者で、ヒエログリフを勉強する人なら必ず持っている『エジプト語辞典』(1927年、オクスフォード)を編纂した学者です。このような家族関係は、マーティン・バナールをして、エジプト研究に対して知らず知らずのうちに身についた自信を持てるようにさせているのだろうと思われます。マーティン・バナールの仕事をアマチュアの余技と馬鹿にして無視しようとする「古典学者」は、コプト語など見向きもしないみずからの「専門」の視野狭窄を恥じなければならないのではないでしょうか。

さらに、マーティン・バナールは、サイラス・ゴードンやマイケル・アストゥアなど、東欧から米国に移住してきたユダヤ系学者との交流の中で、イスラエル在住のユダヤ人とは違った立場から、ギリシャとヘブライとの関係を一体化して理解しようとする視角に触れ、そうした中から『ブラック・アテナ』を書き上げていきました。知のあり方、学問のあり方という見地からすると、マーティン・バナールには、父ジョンや師ジョゼフ・ニーダムがそうであったように世界の現実と向き合うことによって知識を開拓していくところがあり、中国が専門でありながらヒエログリフやコプト語などの諸言語を勉強し、既成のアカデミズムの枠を大胆に壊していく姿勢が見られるのです。そして、人種主義とか進歩の観念といった通念を批判的に乗り越えていく、レディメイド学知の目を見張るような変革を示してくれました。そうした彼の仕事をどう評価するかは、本日のシンポジウムでおおいに議論されることになるでしょうが、まずは挨拶に名を借りて、20世紀末ちかくに出現したこの新しい知的冒険に対して私なりの見方を述べてみたつもりです。いずれにせよ、『ブラック・アテナ』が引き起こすであろう反響がやがてもたらすに違いないプラス効果に大きな期待をかけております。

 

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