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Global Network 21
グローバル・ネットワーク21
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グローバルネットワーク21『ブラック・アテナ』出版記念シンポジウム 
 京都タワーホテル 200758

翻訳、論争、相互作用

 −『ブラック・アテナ』の日本語訳の文化政治性−

單徳興(シャン・テシン、国立台湾中央研究員欧米研究所副所長)

(北島義信・翻訳)

 
1.昨年のカリフォルニア大学バークレー校での体験

 

 昨年、カリフォルニア大学バークレー校のフルブライト上級客員研究員として、研究を行っていた時、私はスタンフォード大学遺伝子古生物学者であるスペンサー・ウェル博士が長となっている、遺伝子伝達プロジェクトの情報に出会いました。このプロジェクトは、ナショナル・ジオグラフィック、IBMなどの援助を受けたものであります。このプロジェクトが言わんとするところは、一般的に申しますと、すべて今日の人類は、約6万年前の北アフリカに暮らしていた一人の男性(これをアダムと呼びましょう)の子孫であり、われわれの「遺伝子マーカー」の分析によって、われわれの先祖の移動の道筋が跡付けられるというものです。私は興味本位で、私のサンプルを集めて指定された研究所へ提出しました。8週間後、ウェッブサイトを検索してみました。その日は、「エイプリル・フール」だったのですが、私の遺伝子マーカーの結果はこうでした。私の先祖は、北アフリカに源を発し、中東、中央アジア、東アジアを経て、最終的に中国東部に到達したというのです。この叙事詩のような移動は、私の両親が80年前に生まれた山東半島の近くで終わったことを、地図上で知った時、ショックというほどではありませんが、私は大変おどろきました。

 この遺伝子伝達のプロジェクトが科学決定主義(特に遺伝子決定主義)へと導くのか、またアフリカ中心主義へと導くのか、世界の多くの地域での、すでに周辺化された「原住民」の多くの人々の権利獲得に影響を与えるのかどうかの論争があったことは否定できません。私の先祖は中国の原住民だとずっと考えてきたため、このプロジェクトは私にショックを与えてくれました。というのも、何はともあれ、このような新しい知識を歓迎するのは、科学的に蓋然的であり証明可能な仕方で、人類のより大きな系図の部分として、私の一族を見る展望を与えてくれたからであります。

 この遺伝子伝達のプロジェクトがマーティン・バナールの『ブラック・アテナ』の主張を支持するために使用されうるかどうかわかりませんが、人類は来たアフリカに起源を発する一家族として見るオルターナティブな展望を確かに与えてくれますし、またギリシャ・ヘブライ文明を基礎にした支配的静養の認識論的体系を再考する展望を与えてもくれます。

 
2.サイードの「オリエンタリズム」の意識

 先程申し上げた話は、これからお話しすることに関わる「くさび」となるものです。私は、エドワード・サイードの著書『知識の主張、権力、政治、文化の主張:エドワード・サイードとのインタビュー』の中国語翻訳者でありますが、次の3点から、『ブラック・アテナ』の日本語訳を見てみたいと思います。その第一点は、オルターナティブな対抗的な認識論的体系、第二点は、移動的翻訳の理論、第三点は異なった文明間の相互関連と相互の豊富化ということであります。

 サイードは権力と知識の間についてミシェル・フーコーから示唆を得て、オリエンタリズムの三つの局面を研究しています。それは、すなわち@アカデミックな学問として、A「思想のスタイル」として、B言説としてであります。彼がやろうと努めていることは、見かけ上は中立的・客観的な知識の成果とその流布の批判的分析を提示することであり、そして知識と権力の間の相互的な複雑な関係、すなわちどのようにして、権力は自分の権力の支配的地位を支えてくれそうな種類の知識の生産を援助するのかを暴きだすことでもあります。ロバート・アーウィンは昨年出版された著書『危険な知識:オリエンタリズムとその不満』において、サイードのオリエンタリズムの記述方法の正確さと適切さを評しています。ここで私に関心があるのは、「危険」ということばであります。知識が危険となるのは、それが減算の認識論的体系によって封じ込まれたり、従属させられることを拒否するときでありましょう。還元すれば、設定された境界を越え、既存の主力理論に挑戦する時です。

 
3.サイードの『オリエンタリズム』とバナールの『ブラック・アテナ』の共通性

 おなじことが『ブラック・アテナ』についても言えます。幸泉哲紀教授が見事に証明しておられるように、『ブラック・アテナ』を巡る論争は、世界の文明についての支配的西洋の概念をバナールが入れ替えたことによるのです。多くの欠点を持ちながらも、『ブラック・アテナ』は強力なオルターナティブな思想を提示し、新しい知識の地平を切り開いているのです。そのような知識の地平は、様々な学問を貫くポスト・コロニアルな言説の勃興と広がりによって、目の当たりに目撃されるものであり、またそれらは古い認識の体系に賛同している多くの人々にとって、危険であることを証明しています。『ブラック・アテナ』は論争を巻き起こしております。これは学問的世界の内外で「脅威」となり「危険な」ものに見られていますが、それは過去20年間にオルターナティブな認識の強力な実例を提示しているからであります。

 したがって、『ブラック・アテナ』の日本語訳は単なる一冊のテクストの翻訳ではなく、世界の文明の現存の概念の基礎を掘り崩したり、あるいは少なくとも、世界の文明を異なった仕方でみることに役立ちうる、オルターナティブな認識論への導入なのであります。二本の土地に移し変えられた時、この知識が「危険な」ものとなるのか否か、それを自ら決めるのは、日本の読者に任されているのであります。

 
4.思想・文明の移動と翻訳

 

 先に述べたことは、二点目に述べる文明の移動と翻訳ということに関係があります。サイードは有名な論文「文化文明の移動論」(Traveling Theory)を次の様に書いています。「人々や批評家と同じように、人から人へと、状況から状況へと、ひとつの時代から別の時代へと、思想や理論も移動する(旅をする)。文化的知的生活は、思想の移動によって育てられ、維持されるのです。そして、・・・一つの場所から別の場所への思想や理論の移動は生活の事実であり、かつまた知的活動を有益に可能ならしめるものである」。さらにまた次の様に述べています。「あたらしい環境へのそのような運動(移動)は決して妨げがないわけではない。それは必然的に、元の地点にあったものとは異なる、再現と組織化(institutionalization)」、の過程を内包する」。彼はこの過程を、次の4パターンの段階に定めています。すなわちそれは、「起源の地」、「横断した距離」、「受容の状態、あるいは受容と抵抗の避けられない部分として」、そして「いまや完全に(部分的に)適応された(受け入れられた)思想はある程度、新しく使用されることによって、新しい時代と場所によって変形される」。

 翻訳も、理論や思想がひとつの場所から別の場所へと移動する場合としばしば関係があります。というのも、英語の「翻訳する」(to translate)という言葉は、ラテン語のtranslationからきたものでありますが、これは「移動させる」、「引き継がれる」を意味するからであります。テキストが複雑であればあるほど、それを異なった言語、文化を前提とする聴衆に翻訳し再現するのは、ますます困難になります。『ブラック・アテナ』のような豊かで論争的なテキストを古い日本の文化的伝統へと翻訳し再現することは、「ミッション・インポッシブル」に近いことであります。このような困難な仕事を皆さんが完成されたことは、賞賛に値することであります。

 

5.私「單徳興氏」の翻訳論

 

 研究者であり翻訳者でもある私は、テキストの翻訳を言語的なものとしてばかりでなく、文化的なものとして常に見てきました。私にとって、すべての翻訳は文化の翻訳なのです。時に重要なテキストを翻訳するとき、私にできる限り十分に標的となる聴衆に、テキストを本来のコンテクストに位置づけ、かつその内部にある意義を強調することによって、また特定の時代と場所においてそのようなテクストを翻訳することなどなぜ必要なのかを説明することによって、それを再現することを望みます。それゆえ、サイードの作品の再現は、テキストそれ自体の忠実な翻訳であるばかりでなく、批判的採用であり、注釈であり、サイードとのインタビューでもあり、かれの著書の注釈を施した文献一覧であり、彼の生活の歴史でもあるのです。この種の付加的サービスを通じて、私の標的となる聴衆は、人物としてのサイード、彼の作品、歴史的知的コンテクスト、中国語読者との関連性をよりよく理解するであろうことを私は望んでいます。この仕事は、「愛情をこめた仕事」(labor of  love)としてなされるのです。

 私は、自分の努力が出版社によって支えられ、多くの読者によって評価され、最上の翻訳者に毎年与えられる金鼎賞等をいただいておりますが、どんなに重要な作品であっても、特定のテキストの翻訳を記念した国際シンポジウムが開かれることは、夢想だにしませんでした。台湾にいるわれわれは、日本から文化的著作のメカニズムについて多くを学ばねばなりません。というのは、翻訳は言語、自然、文化的境界を越えて思想や理論をもたらし、また標的となる聴衆にそれらを得られる様にすることにおいて、欠くべからざる役割を果たしているからなのです。

 
6.諸文化・文明の間の相互作用と豊富化(肥沃化)

 

これらの話は、私の第三番目かつ最終的結論、すなわち文明間の相互作用と肥沃化へとつながる問題であります。時間の関係で、手短に申し上げねばなりません。幸泉哲紀教授が結論で指摘されているように、「もし『ブラック・アテナ』から学ぶべき教訓があるとすれば、またグローバルな規模に関連しあっている今日の世界に暮らす我々にとって、それが先導してくれる論争があるとすれば、歴史的かつ現代的なすべての文化文明は、混成的文化文明であるということを悟ることである」。私は先生のこの輝かしい視点に全面的に同意いたします。事実、これはまたサイードから、我々が学んだ最も重要な教訓の一つでもあるのです。多くの著書において、サイードはどんな文化、文明も孤立しては存在できないことを何度も強調しています。また、純粋、完璧な文化・文明のようなものは存在せず、文化・文明は常に相互関係の中で豊かになってきており、混成化されてきたことを強調しています。この点が、「文明の衝突」の主張者、サミュエル・ハンティントンとの根本的相違点であります。サイードがパレスチナ系アメリカの学者として行ってきていることは、西洋の支配的な権力的かつ知識の体系を分析し、他の文化を、孤立した、劣った、野蛮なものとしてではなく、つながり合った、相互に豊かにし合う、活気付けるものとして人々が理解することを促進させることでありました。また公的知識人として、パレスチナ人とイスラエル人の間の平和的共存を主張しており、その一例は、イスラエルとアラブ諸国の音楽家を呼び集めて、ひとつの同じオーケストラに参加させる取り組みの勢力にも見られます。

さて、翻訳というものは決して中立的なものではありません。翻訳というものは、換言すれば、論争の場でもあるのです。主要な点は、いつ、どこで、どのようにして、誰によって、誰のために何が移動(移しいれられる)されるのか、翻訳されるのかという点であり、またそれがどんな影響と結果をもたらすのかということです。いまや残されているのは、『ブラック・アテナ』がどのようにして日本の文化的コンテクストにおいて受け入れられるのか、どのようにしてこの受容がアメリカや他の国と異なりまた同じであるのか、別の観点から世界の文明を日本が理解する際に、この翻訳がどのように貢献するか、このオルターナティブな理解はどのようにして日本の聴衆が、自国の歴史の主流となっている理論に疑問をさしはしみ、チャレンジする手助けになりうるか、またこの新しい知識と理解がどのようにして、さまざまな文明間の相互の肥沃化を生み出し、さらなる相互作用を開始し得るのか、であります。

21世紀の始まりのこの時期に、GN21主催の『ブラック・アテナ』翻訳記念国際シンポによって日本へのブラック・アテナの理論の翻訳から多くのことが期待され、より多くの地域的かつ国際的統合と共同がこれから進むことでありましょう。

 
7.結論

 

 ギリシャ神話によれば、アテナは織物と工芸の技能をもち、戦争の仕方に精通した、並外れた知恵を持つ文明の女神でありました。異なった思想や理論が互いに出会う時、いくつかの衝突や構想も起こるものです。相違を解きほぐし、構想を和解させる技術と知恵が必要です。しかし、交渉と和解の過程そのものが、良き学びであり自信のもてる経験がえられる場なのです。そしてそのことが今度は、それらに関わった人々の技能と知恵をさらに高めるのです。

 『ブラック・アテナ』のような、非常に豊かで論叢を呼ぶテキストを紹介することは、きっと多くの関係読者に重要なチャレンジをもたらすことでしょう。

 日本の研究者および一般の方々にも、このテキストを読むことができるようにすることによって、知的チャレンジを促進されたという点で、台湾の研究者であり、翻訳者として、日本の仲間の皆さんにお祝いと心からなる賞賛を贈りたいと思います。この翻訳されたテキストの影響と結果について言えば、この国際シンポジウムは、一連の反応と相互作用の先導 する最初の試みとなるものでありましょう。ともに、今後の成り行きを見守ろうではありませんか。

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