「希望のバラード」
フレデリク・ショパン作曲 17のポーランドの歌
Op.74より<のぞみ>
第1曲<のぞみ>は、従来わが国ではドイツ語訳からの再訳によって<乙女のねがい>として知られてきた曲です。歌詞にはポーランドの詩人、ヴィトフィツキが選ばれています。ショパンははじめこの曲をピアノと声楽のために書いたが、リストによってピアノ独奏曲に編曲されました。私たちのグループ名がsperanza=希望、期待、望み、願望という意味の女性名詞のイタリア語であるため、グループのテーマ曲を探していた時に、この曲を思い出しました。
<もしも私があの空の太陽なら、貴方のためにしか輝きたくないわ。
湖のためでも、森のためでもなく、だけどいつまでも永遠に、貴方の窓辺を、ただ貴方のためだけに。
私が太陽になれたらいいのに。
もしも私がこの木立の小鳥なら、他のどんな場所でも歌わないわ。
湖のためでも、森のためでもなく、だけどいつまでも永遠に、貴方の窓辺で、ただ貴方のためだけに。
どうして私は小鳥になれないの!・・・と歌われます。>
エドワード・エルガー作曲 <愛の挨拶>
イギリスの作曲家エルガーが、1888年にキャロライン・アリス・ロバーツとの婚約記念に贈った曲です。元々エルガーのピアノの生徒であったアリスは8歳年長(当時39歳)で、宗教の違い(エルガーはカトリック、アリスはプロテスタント)や、無名の作曲家と陸軍少将の娘という身分格差からアリスの親族は2人の仲を認めなかったため、反対を押し切っての結婚でした。今日、日本人演奏家の間でも、とりわけ女流演奏家のレパートリーとして人気の高い小品の一つです。
アイルランドの民謡 <ダニー・ボーイ~ロンドンデリーの歌~>
<ロンドンデリーの歌>として知られる旋律に歌詞を付けたものです。 このメロディーにはいくつかの詩がつけられているが、最も有名なのがイングランドの弁護士、フレデリック・ウェザリーの作です。元々は別の曲のために1910年に作られた詞だったが、それは広く知られるには至りませんでした。1912年にアメリカにいる義理の姉妹から<ロンドンデリーの歌>の楽譜を送られると、彼は翌1913年にその詞をこのメロディーに合うように修正して発表しました。
女性の立場で男性に別れを告げる歌として解釈できる内容だが、この歌は男性歌手によっても多く歌われてきました。また両親や祖父母が戦地に赴く息子や孫を送り出すという設定で解釈されることも多いです。今日はあらゆる楽器編成で演奏される有名曲です。訳詩は著名なものを載せます。
<おお ダニーボーイ いとしきわが子よ いずこに今日は眠る 戦に疲れた体を
休めるすべはあるか お前に心を痛めて 眠れぬ夜を過ごす 老いたるこの母の胸に
おお ダニーボーイ おお ダニーボーイ帰れよ
おお ダニーボーイ いとしきわが子よ たよりもすでに途絶え はるかなその地のはてにも
花咲く春はくるか 祖国に命をあずけた おまえの無事を祈る 老いたるこの母の胸におお
ダニーボーイ おお ダニーボーイ帰れよ>
ショパン作曲 前奏曲第15番 変ニ長調
Op.28-15<雨だれ>
前奏曲第6番で、ジョルジョ・サンドの「回想録」中、次のような話を記しています。マジョルカ島ヴァルデモーザ僧院である暴風雨の日、ショパンを残して外出し、夜ふけに帰宅してみると、彼はまだ起きていてピアノを弾いていました。そのさい、軒端から雨だれが落ち、その単調な雨が、ピアノの奏する曲に反映していたというのです。そのときの作品がこの前奏曲だと思われ、サンドは「この曲は心を恐ろしく憂鬱につき落とす」といっています。これは<雨だれのプレリュード>についてではないかとする見方もあります。しかし、この曲の場合も大体はパリですでに書かれていたようです。<雨だれ>の名称のもととなった全曲とおしてほぼ一貫して打ち続けられる変イ音は、たしかに効果的です。
シャルル・フランソワ・グノー作曲 <アヴェ・マリア>
フランス人作曲家グノーが1859年に作った声楽曲です。バッハの「平均律クラヴィア曲集」の第1巻、第1曲の「前奏曲」を伴奏部に用い、それにグノーが一世紀以上も経ってから美しいメロディーを添えた。日本語の訳詩では
<アヴェ マリア 神のめぐみに みちたる君 幸にあふるる君
おみなのうちに 君ひとりは イエスが母と なりたまいき
サンタ マリア サンタ マリア マリア
けがれし我を 憐れみたまえ 生くるこの日も 死する時にも
アーメン アーメン・・・と歌われています。>
モーリス・ラヴェル作曲 <亡き王女のためのパヴァーヌ>
ピアノ曲はパリ音楽院在学中に作曲した初期を代表する傑作であり、ラヴェルの代表曲の1つと言えます。諸説ありますが、ラヴェルがルーヴル美術館を訪れた時に展示されていた、17世紀スペインの宮廷画家ディエゴ・ベラスケスが描いたマルガリータ王女の肖像画からインスピレーションを得て作曲した、とされます。「亡き王女」という題名はフランス語でpour
une enfante défunteとなり、言葉の韻を踏む遊びから命名されました。ラヴェルによるとこの題名は「亡くなった王女の葬送の哀歌」ではなく、「昔、スペインの宮廷で小さな王女が踊ったようなパヴァーヌ」だとしています。なお、パヴァーヌとは、16世紀から17世紀にかけてヨーロッパの宮廷で普及していた舞踏のことです。優雅でラヴェルらしい繊細さを持つ美しい小品であり、ピアノ版や、ラヴェル自身の編曲による管弦楽版の他にも、多くの編曲者によるピアノと独奏楽器のデュオ、弦楽合奏など、様々に編曲され、コンサート、リサイタルの曲目やアンコールとしてしばし取り上げられます。晩年、ラヴェルが自動車事故により記憶障害が進行してしまった際、この曲を聴いて「この曲はとてもすばらしい。誰が書いた曲だろう。」と言ったという逸話もあります。
※主要参考文献:ショパン(音楽之友社)、暁子猫のブログ、ショパンの作品を鑑賞する・ブログ、フィーリ・HP、詩と音楽・HP、世界名歌選集(ドレミ楽譜出版社)、なかにし礼訳詩、wikipedia・HPなど。
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