竹谷報告:
大久保:農業廃プラスチックという問題は現在の環境問題を集約している。特に中国への廃棄物輸出という問題には、グローバリゼーションの陰の部分が浮き彫りにされている。
この報告を聞いていて思いだしたのが、1970年にクラブ・オブ・ローマが出した『成長の限界』である。そこで出てきたキーワードとして、「人口増加」、「工業化」、「資源枯渇」がある。つまり、「人口増加」と「工業化」がという二つの傾向が続くと、「資源枯渇」という問題が出てき、それが「成長の限界」につながるという議論であった。振り返ってみると、これら三つのキーワードが現す現象が、現在では極めて多様化・複雑化してきている。これら三つの現象にともない、「食料」と「環境」という問題が絡んでくるし、事実そうなってきていると思う。1970年以来、いろいろな議論が展開されてきたけれども、
農業をも含め、すべての経済活動は「環境問題」に行き着くように思われる。したがって、人間そのものを環境という大きな枠組みのなかで捉え、工業化といった人間活動も環境とどう関わってくるのかといった視点から見ていく必要がある。というのは、環境問題が最終的な意味で人間のあり方、地球のあり方に絡んであるからである。
農業は工業化の陰におかれてきた。アジアの農業は多作で労働集約型というのが特色であったが、中国のように極端な工業化のために、そのアジア型農業が破壊されてきているのではないかと懸念される。中国が経験していることは、過去2世紀以上にわたって西洋諸国や日本が追求してきた工業化のつけが回ってきたとさえ言えるのではないだろうか。しかも13億という中国の人口を考えると、中国の問題は人類の問題だと言える。したがって、われわれは中国の世界経済における台頭を脅威として見るよりは、西洋諸国や日本が追求して来た工業化の犠牲者として見るべきかと思う。もちろん、中国の工業化を推進しているのは共産党体制であり、政治の問題が絡んでいることは言うまでもない。
農業廃プラスチックの問題には科学技術の問題が絡んである。農業は一つの例から知れないが、人間の生業と科学技術とは対立関係にあるのではないかと思う。これは人文科学と理工科学系の人間の間に考えの違いの現れとも言える。理工化学系の人間は便利さという視点から科学技術の進歩を考え、人文科学系の人間のように開発された技術がどのような害を人類や環境に与えるかといったことはほとんど頭にない。科学技術についてもモラルとか、人間のあり方といった視点から、ある程度歯止めをかけるということも必要なのかと思う。少なくとも、人間のあり方、環境への影響といったことも組み込んだかたちで科学技術の発展ということを考えるべきではないか。
北島:プラスチックが出てくるまでの農業はどういう形でやっていたのか。
竹谷:日本では大正、昭和にかけては油紙が使われていた。中国では、特に東北部では依然油紙が活用されている。
北島:油紙とプラスチックでは、労働の軽減の他、どのような違いがあるのか。
竹谷:労働軽減の軽減に加えて、コストの軽減という点で違いがある。中国や韓国で使用されるプラスチックの厚さは日本の半分で、それだけ低コストになる。しかし、薄くなると付着物の除去が難しくなり、再生には向かない。日本で使用されている厚いプラスチックではそれだけ再生使用が可能な部分が多いということになる。
大久保:プラスチックについて、日本では廃棄物で、中国では再生可能資源ということでしたが。
竹谷:法律でそうなっているということで、化学的にはプラスチックは再生可能物質である。再生する技術はあるが、再生にはコストがかかる。経済的にペイするかどうかで処理方法が決定されるので、中国のように市場原理に任せている国では放置されるということになる。ただ中国でも資源に再生しやすいペットボトル類は再生され、循環していく。農業で使用されるプラスチックについては、ほとんどが放置されており、これは「白色汚染」として社会問題にもなっている。
北島:狭い土地を利用して行う日本の農業にどうしてプラスチックを使う必要があるのか。使わなくても、コスト面でもそれほど問題ないのでは。後継者不足と何か関係しているのか。
竹谷:農家にとって関心があるのは、自分の作物がどれだけ高く売れるかである。今旬ということが言われなくなっているが、プラスチック包装をすることで、旬でないない時、つまり価格が高い時に出荷できることになる。アメリカや中国から多く野菜類が輸入されているなかで、日本の農家としては、輸入物が出回らず価格の高い時に出荷するのが有利で、そこでプラスチックを使うということになる。家畜の飼料にしても大きな設備投資でサイロを作って保存するよりは、プラスチックを使っての保存が安上がりである。
北島:農業も資本主義的な仕組みのなかに組み込まれ、旧来の農業ではやっていかれないということなのか。
竹谷:旧来型の農業でも、消費者があれば存続は可能である。だが農家が消費者と直結できるのはごく小さい地域なので、限られた消費者が支える農業よりは、大きな消費者市場とつながる農業の方が経済的に優位ということになる。
幸泉:
廃掃法第2条第2項によると、「国内において生じた廃棄物は、なるべく国内において適正に処理されなければならない」とされているとのことですが、「なるべく」というような曖昧な言葉が法律に使われていることに驚きました。廃棄物が国内で処理されず、海外に輸出される背景に、この法律の曖昧さがあるのでは。さらにバーゼル条約についても、その実効力に限界があるのでは。
竹谷:廃掃法は日本国内の法律、バーゼル条約は国際間の法律で、両者がうまく噛み合ないのはある程度仕方がないと言える。バーゼル条約は有害物質の公益を禁止するという条約で、主として先進国から発展途上国への有害物質の輸出を規制するのに適用されている。ゴミを適正に処理した上で輸出しようというのがその主旨だが、ここでも「適正」をどこまで徹底して考えるか、汚濁・汚染の可能性がまずないというレベルで考えるのか、あるいは必要最低限処理のレベルで考えるのか、差が出てくる。現状では必要最低限の処理、つまり法律に引っかからなければ良いといったレベルで処理されている。どの法律にもいわゆるグレイゾーンというものがあり、廃棄物処理に関しては、有害物質が付着しているかどうかを何で判断するかという問題がある。厚生省からの委託を受けて処理を行っている業者は、写真で判定するという方法をとっている。写真判定ということは平面的に、しかも現物を目で確かめることなく判定しているということである。税関では現物を見るが、まず有害物質は見つからない。中国では現物を見て検査するので、日本からの輸出は検査の厳しくない香港ルートを使ってということになる。
蔡:バーゼル条約の実行力には二つの要因が絡んでいるのでは。中国での規制が緩いので日本から廃棄物が輸出されるということの外に、先進国では有害物質とされているものでも中国ではまだ再生利用の可能性があるから輸入するということもあるのでは。例えば、パソコンの場合、ICチップは再生使用可能なので、日本や韓国で廃棄されたパソコンを輸入している。もう一つ、日系企業が廃棄物の輸出入に絡んでいるのでは。
竹谷:確かに経済発展の差も廃棄物が先進国から発展途上国に流れる背景にある。発展の差が規制の厳しさ、緩さの差になって現れるのでなないかと思う。ただ同じ国でも立場の違いで適正処理の解釈に違いがある。例えば、日本の環境省ではモノが循環されればよいという立場で、経済産業省は廃棄物でも輸出先でさらに資源として使用されればよいという立場である。農家が規制を受ける廃掃法では適正処理まで行うということだが、これも実際に処理を行う業者の判断に任されている。香港ルートで流れる場合、水で洗って、目で見て付着物が残っていなければOKである。韓国では韓国資源公社という準政府機関が処理にあたっているが、やはり中国へは日本の業者と同じく緩い汚染処理で輸出している。どの国もバーゼル条約にひっかからなければ、受け入れ先があるかぎり、できるだけ緩い汚染処理で輸出するというのが現状である。
大久保:コストについて、コストの配分はどうすべきか。
竹谷:家電や自動車、またペットボトルについても、リサイクル法でメーカーの責任がはっきりと規定されている。農業用プラスチックの場合、容器以外については、農家は責任を負わないことになっている。責任を問われるのは処理業者となっている。ちなみに、韓国の場合は国の責任とされており、中国の場合は、資源として市場システムに任せ、農家や排出業者の責任ということにはなっていない。したがって日本では、引き取り費用を払う農家と処理を行う処理業者がコストを負担するということになっている。そこで農家としては経済的にもっとも安い処理方法を選択するということになる。
松本:法律でどうするか、経済的なコストをどう配分するかという問題を超えて、リサイクルを増やせばゴミが増える訳で、さらに処理の問題が拡大していく。この問題は市場原理で解決をする限界にまで来ているのでは。
竹谷:確かにリサイクルを増やせばゴミも増えるという側面がある。そこで、日本では2000年の循環型社会形成基本法という法律に行きついた訳で、そこでは、まず排出抑制、次に再使用、そして三番目に再生使用、つまりリサイクルという方針を打ち出している。それでも処理できない場合には、焼却と埋立ということになる。ということで、単純にすぐリサイクルということでやっている訳ではなく、排出抑制のためのバイオディグレイダブルなプラスチックの開発も進められているが、コスト面で普及しないという現状がある。リサイクルはモノをできるだけ循環して使用していこうという発想に基づくもので、循環型社会の基本的な考えである。
片岡:ドイツでは循環型社会の取り組みが随分進んでいると聞いているが。
竹谷:ドイツではペットボトルや牛乳瓶など、デポジット制を採用しているようだが、日本ではデポジット制を積極的に進めているのは宮崎県ぐらいで、まだ全国的にはやっていない。宮崎県はこの制度をここ7、8年行っているが、例えば4000万という税金を使わないとやっていけないという問題をかかえている。ドイツと違い、日本では各種リサイクル法はデポジット制を放棄した形となっている。
古田報告:
安藤:グローバリゼーションと民主主義との関係では、ローカルな民主主義をどうグローバルな民主主義へ拡大していくのか、つまり参加型民主主義という理想をどこまで世界的な規模にまで拡大していけるのといった議論がされている。その一方で、世界的な規模で、特に欧米諸国では、政治不信、つまり民主主義に対する不信・失望も顕著に見られる。それは民意を反映せず、上からの支配・操作が強くなっていることに対する民主主義への不信、あるいは失望である。
民主主義は三つの原理に基づいているという議論がされてきた。第一の原理は権力の源泉が民衆にあるということ、第二の原理は権力の形成と行使の手続きにおいて多数決によって決定するということ、第三の原理は人々を幸せにするのかという目的と結果に関することである。
欧米諸国において民主主義が信用を失ってきている理由としては、第二の原理である権力の形成と行使において多数決原理がうまく働かなくなり、国家に権力が集中し、そのため人々を幸せにするという目的に合わず、またそういう結果をもたらすことのない政治体制に変わってきたからだと思う。もうひとつ、国家権力の集中と言えば、ポピュリズムに基づく権力の集中がある。これはレーガン政権や小泉政権が代表的な例であるが、ポピュリズムに基づく権力の集中は代表制民主主義に対する挑戦である。国民の支持が高いからということで権力を行使することはファッシズムに行きつく可能性もあり、危険な兆候だと思う。そこで参加型民主主義をどう実現するのかという議論はともかく、代表制民主主義をどう機能させるのかといった議論を行う必要があるのではないかと思う。
多数決原理が行使されている国においても、それは民主主義を構成する原理の第二の原理を尊重するというよりは、「最大多数の最大幸福」という功利主義的思考の行き着く先として行使されているように思われる。功利主義を乗り越える試みは、社会主義、リベタリリアニズム、コミュニタリアニズムなど、多くある。こうした議論をする際、リベタリアニズムやコミュニタリアニズムでは忘れ去られがちな国家目標とか公共性といったことを良く考え直す必要があるのではないかと思う。
代表制民主主義をどう機能させるか、多数決原理をどうするのか、といったことを考える際に大切なことは、コンセンサスをどう形成するのかという議論だと思う。多数決に行く前に徹底的な討論を行うのがコンセンサスの主旨であるが、このことはグローバリゼーションと民主主義という議論の中ではあまり取り上げられていない。ケインズ主義的な大きな政府に対する反応として小さな政府を主張するネオコンの議論にしても、市民社会に任せておけば貧富の格差が生まれるという問題をどうするのかということを考える必要がある。
ベトナムの民主化では、村落共同体という伝統とインターネット化という革新が結合してゆく一つの形が示されているという点で大変参考になる。一つの事例ではあるが、伝統的なものが発展の阻害とはならないということを示しており、このことを通して伝統と革新の結合の可能性を考え、そのことが民主主義のグローバル化といった議論に発展していくのではないかと期待される。
大久保:ベトナムの民主化の前提に腐敗とそれに対する民衆の批判がるということだが、体制の腐敗ということでは中国やインドネシアといった発展途上国でもあることで、ベトナムでの腐敗の特色といったものがあるのか。
古田:確かに腐敗は中国やインドネシアといった発展途上国でもおきており、ベトナムでも同じ現象と考えていいのでは。ベトナムでの腐敗・汚職ということでは、例えば、ODAが絡んだ汚職が起きている。もう一つの腐敗・汚職の例としては、法律学校の教師が正規の授業外に学校を使って補習授業を行い、お金を稼ぐといったこともおきている。また外資系企業が何のためのお金なのか分からない礼金を要求されるといった例もある。古い資料では外国の人間がベトナムにくると、1キロごとに役人がでてきて礼金を請求をしたということが書かれており、これがあるいはベトナム特有の現象だったのかも言えるかも知れない。
中川:インターネットの規制は、中東地域でも行われているが、インターネットの普及が遅れ、プロバイダーの数も少ない中東とは事情が違うと思う。ベトナムではどのようにして規制や検閲が行われているのか。
古田:確かにベトナムでのインターネットの普及はめざましい。規制が行われていることは、日本から先に送ったメイルが後に着くといったことがあることからも推察される。体制側が一番神経質になっているのは海外の反共サイトとの連携であるが、具体的にどういう検閲を行っているのかは明らかではない。インターネット紙の場合、検閲の対象となる記事は即座に消去できるという利点があるので、まず出してみようということが行われているのでは。ベトナムネットの編集長が解雇になったということもあるので、検閲の目が光っていることは間違いない。いずれにせよ現体制を表立って批判する記事は出せないのが現状である。
松本:アフリカでは一党独裁ではないけれども、やはり腐敗の問題がある。腐敗は一党独裁だから起きるというのではなく、アフリカでは政府役人が貿易とか為替取引に関して裏金を請求するという例があるが、これは彼らの給料が低いからだと思う。つまり、国民一般の生活水準に関係しているのでは。
古田:腐敗・汚職と一党制・多党制との関係については、一般的に一党制だから腐敗・汚職がおこりやすいという議論はできないと思う。ベトナムの場合、政治的多党主義の議論が一番やりやすいのは腐敗・汚職に関してなので、腐敗・汚職が目につくのだと思う。
松本:民主主義の目的・目標と言われるが、欧米や日本ではそれが失われてきているのではないかという議論もあるが、ベトナムではどうなのか。
古田:ベトナムが掲げている社会主義という目標が人類共通の目標なのか、あるいはベトナムが伝統的に大切にしてきた共同体意識がいわゆるベトナム的民主主義の目標なのかについては、二つの目標が絡んでおり、それらが現在拮抗している状況なのではないかと思う。中国の場合、より良い中国、より豊かな中国といったものをその社会主義の目標としているようで、ベトナムでもある程度より良いベトナム、より豊かなベトナムということが大切な目標になっていると思う。ただ、ベトナムでは、より良いベトナム、より豊かなベトナムいった長期の目標に待ちきれなくなった人たちが難民として出ていった場合が多い。
片岡:私がベトナム滞在中、学生たちや先生がたと付き合うなかで良く聞いたことは、ベトナムでは体制派の幹部と若い世代との間にはギャップがあるということで、若い世代が関心をもっているのは、お金、つまり豊かな生活で、したがって外資系の企業で働きたいということになる。こうした若者の志向とベトナム民族の優れた資質が市場経済と結びつくことで、ベトナムは東南アジアの指導的な地位を占めるようになるのではないかと思うのだが。
古田:長い戦争のため、ベトナムは長い間その潜在的な経済力を発揮できなかったのだと思う。したがって、今の開放政策が進められるとASEANの半ばくらいの地位に達するのはそれほど難しいことではないのではないか。それから先に行くには、いろいろな障壁がある。例えば、越僑と呼ばれる海外在住のベトナム人の財力と知力を経済発展に転化するには、さらなる民主化が要請されると思う。
佐々木報告:
蔡:今のグローバリゼーションをグローバル帝国主義と見る観点は注目すべき観点だと思う。確かに現在の世界では、生産過程に直接関与していないものが、その資源や金融力により支配的な役割を果たしているが、それはグローバリゼーションが帝国主義の段階に達したからだとするのはどうかと思う。例えば、中国の場合、グローバリゼーションの流れにうまく乗っかって大きな経済に成長し、その金融力で世界市場に影響を与えるまでになっているが、それで中国が帝国主義の段階に入ったというのはどうかと思う。
佐々木:工業的な発展の裏付けがなくても、かつてのフランスのように、国は金融力で高利貸し的なことをやることで、帝国主義的に行動しうる。中国の一人当たりGDPはまだ低いが、軍事力の大きさは目を見はるものがあり、例えばチベットの扱いを見ても、これこそ帝国主義なのではないかと思う。中国のような国を新興国といった余り意味のない語で呼ぶのはどうかと思う。中国もロシアもいわば新しい意味での帝国主義国だと言えるのではないか。これに比して、日本の場合、経済的に成熟しているが、資源力、軍事力などから見ると帝国主義国とは言えない。
片岡:フランスも帝国主義なのか。
佐々木:そういう段階があったと思う。今はEUの枠組みのなかで行動するので、帝国主義的な側面は余り見えなくなっているが、EU自体新しい形の国家と見れば、EUが帝国主義的に行動するということは考えられる。
片岡:EURO圏ということは確かに考えられるが、それが帝国主義と言えるのか。
佐々木:EUROの影響力は広がっているけれども、EU自体が帝国主義の段階に入ったとはまだ言えないと思う。
片岡:科学技術の発展とグローバリゼーションの展開との関連をどう見るのか。
佐々木:グローバリゼーションが環境問題というところで行き詰まるというか、限界に達することは考えられる。問題は科学技術の開発に参加するものは、利便性・便宜性ということしか見ず、経済人は科学技術の収益性しか見ないことにある。技術の評価のやり方を根本的にやり直すことが必要だと思う。例えば、最終的にどういうゴミになるのか、それをどう処理するのかも考える必要があるのでは。
片岡:価値観の転換ということは必要ないのか。
佐々木:それを企業に求めるのは困難である。というのは、企業は環境問題を成長の規制要因と見ているからである。特に、株式会社では、経営者は収益を出すことにしか興味はない。ただ消費者側の意識の変換が企業に影響を与えることはできる。教育による価値の転換も考えられるが、現在の教育を見る限り、教育の場での大きな転換は見られない。
松本報告:
両角:極めて抽象的観念の世界での話だったので、内容を十分理解したとは言えないが、私の専門からすると契約というと社会契約説のことになる。個人の自由意志を放置しておくとホッブスの言うような闘争社会になる。そこで契約によって個人と全体との調和を図る必要がある。ロック、ルソーと引き継がれてこの問題が議論され、ルソーは個人意志に対する普遍意志というものを設定しないと調和が保たれないとした。こうした議論を受け、さらにヘーゲルは近代社会が契約により成り立つとした。個人の欲望は放置すれば無限に広がる。それが富の増大の原因になるが、その一方で貧困の問題も出てくる。そこで近代市民社会では個人の自由な欲望の行使を抑揚する必要がある。そこで教教育、あるいは職業団体といったものを媒体として全体意識を植え付けることになる。それを同じように、ここでは個人主義とも全体主義とも違う真の共同体を実現するためには何が必要なのか、そのための契約はどのようなものなのかが議論されていると思う。
大久保:公共空間ということが言われているが、それは理性で実現できるものなのか、感情により作られるものなのか、それとも二つの協同によるものなのか。国家と政治という言葉が使われているが、その意味は近代の国民国家とか市民国家と違って意味で使われているように思うが、そうなのか。また国家と政治のコギトと表現されているので、このコギトの主体は何なのかが分かりにくい。それから脱契約共同体というのはいわゆる前近代的身分社会ということなのか。もし違うとすれば、どこが違うのか。もし脱契約社会が望ましい社会のあり方とすれば、近代が追求してきた契約社会の未来はないということなのか。
松本:感情のもととなるエゴを他者に遺棄することによって成り立っている空間のことを公共空間と呼んでいる。これが存在しないと契約も成立しなければ、国家も成立しない。社会の枠組みという意味での国家・政治は確かにコギトの主体とならないが、国家・政治を握っている意思決定者・政策決定者と意味での国家・政治はコギトの主体となる。
封建社会との関係については、ナンシーという学者の『無為の共同体』という書があるが、ここで彼は真の意味での共同体は原始時代にも、封建時代にもなく、これまで存在しなかったもので、これからも存在しないものとしている。私も封建時代のような共同体が必要だと議論しているのではなく、生け贄・身代わりといった行為に代表される、これから構築されるべき共同体とはどのようなものかということを議論している。それは成立させるというより、目ざしていくものだと思う。極端に言えば、共同体を目ざしていくこと自体が共同体と言えるのではないかと思う。
契約という概念とグローバリゼーションとの関係は、金融グローバリゼーションは実体経済とは離れたところで展開している。ということは実体経済をコントロールしても金融取引のコントロールはできない。金融グローバリゼーションをどう規制していくかということを考えたときに、金融取引においても行われる契約というものを成り立たせているものは何なのかを考え直す必要があるのではないかというのが、この論文の一つの動機となっている。ただ、金融取引のところまで議論をもっていくには、さらなる理論の展開が必要だと感じている。
大久保:不完全なものとはいえ、契約社会は現在ある訳で、それを完成することを目ざしているのか。契約がなくても名誉とか自己犠牲といった行為はある訳で、なぜ契約社会でなければならないのか。
松本:自己犠牲が社会の支えとして存在しているし、名誉といったこともある。ただ、それが個人の行動の基底となっているかというと疑問である。
大久保:近代社会というものは、実は名誉とか自己犠牲といったことを前提として成り立っている面もあるのでは。
松本:まさにそういう側面があるのが国家・政治だと思う。一人の人間の名誉とか自己犠牲の行為が、まるで国家全体のためであるかのように見せることができるのも国家・政治だと思う。
両角:国家を作るのは人間なのであるが、個人と全体とは必ずしも浸透しあっていない。真の共同体とは個人と全体とが浸透し合う社会なのか。
松本:真の共同体は自我を遺棄する、正にその瞬間にできる公共空間に生まれるものである。そこでの意思決定はコンセンサスである。例えば、アフリカのある村では長老を決定するのに2年間かかったことが、ガーナ出身の学者の書に紹介されている。これは、その決定プロセスが共同体としての意識を共有する上で大切だったからだと思う。国家は箱モノとして必要だが、それに刺激を与え、活性化する運動が必要で、その運動が自我の遺棄だと思う。国家においても、代表決定、意思決定、執行という3段階でコンセンサスを行使することができる。
大久保:代表制民主主義も主旨としては、自我を遺棄し、他者に意思決定をゆだねるという側面をもっているのでは。
松本:もちろんそうなのだが、代表決定、意思決定、執行という3段階でコンセンサスが行使されるかというと、そうではないと思う。
片岡:プロセスそのものを重視するという点では、これは永遠の革命理論のように見えるが。松本:革命という語には少し抵抗があるが、生け贄・自己犠牲が必要という点では革命的なことかも知れない。
春木:自我の遺棄とデリダのいう「受動的」ということの関連は。
松本:個人において絶えざる努力が必要という点で、デリダの「受動的」とか、出来(しゅったい)とは少し意味合いが違う。
北島:ここでの理論はある意味でこれまでの政治理論から「横跳び」しているように見えるが。
松本:まさにその通りで、バナールが『ブラック・アテナ』で、これまでの歴史学から考えられないような見解を展開できたのも、従来の歴史学から「横跳び」したからだと思う。
片岡:最近日本がだめになったという議論が良くされるが、『菊と刀』と言った精神を取り戻す必要があると論ずる者もいるが。
松本:『菊と刀』は所詮オリエンタリズムで、これからの日本がどうあるべきかについて示唆を含んでいるとは思えない。
片岡:だとすれば、日本の政治的、経済的、文化的退廃をどう説明するのか。
松本:サラ金が一番元気であるのが今のジャパンで、これ以上いうべき言葉をもたない。
幸泉報告:
北島:報告では、個人のレベルでのグローバリゼーションということで、自己とアイデンティティーの問題を取り上げ、歴史的な視点から自己に関する考えの流れを見、またアイデンティティーという考えの展開を見ている。そこから完全に自律的な個人とか、唯一のアイデンティティーをもつ人間といったことではなく、ハイブリッドな人間というのが実は現実なのだということを述べている。ハイブリッドということで、いろんなものとつながっている訳で、そのつながりを自覚・認識していくことが内からのグローバリゼーションになるとの結論であったと思う。
ハイブリッドについて考える際、世界における存在としての私と具体的な生活の場における私とがある。それは人間存在の縦軸と横軸との言えるもので、そこでどうなっているのかを見る必要があるのでは。例えば、仏教の場合について言えば、日本人にとっては仏教は外来の宗教で、もともと民衆がもっていた信仰もあった。浄土真宗などは実はその基底に上に乗った形で出て来たところがある。したがって多重的なアイデンティティーについても、基底に何があるのを掘り下げていく必要があるのでは。それと具体的な生活の場で獲得するアイデンティティーとの関わりとを考える必要があると思う。つまり、絶えず人間存在における縦軸と横軸との関係を見ていく必要があるということである。
佐々木:地球市民という意識が内在的なものであるとすれば、それは学習によって獲得、あるいは学ぶことができるのか。グローバリゼーションと帰属意識としてのアイデンティティーということで感じるのは、株式形態の会社ではそれが薄れてきたのでは。そこで自由な株式の売買とか、M&Aといったことが出てきたのではないかと思う。それとアメリカの経営者と日本の経営者では環境に対する意識はかなり違う。日本では企業意識が強い。その辺は人間観の違いとどう関わっているのか。
幸泉:北島先生も言われているように、ルーツは大切な要因で、それがあるからアイデンティティーが日本語で自己帰属意識と翻訳される理由だと思う。帰属意識も人間の成長の段階で、母親との触れ合い、家族との触れ合い、近隣との触れ合い、大きな社会との触れ合いと広がっていく。その広がりが世界に、地球に、宇宙にと広がっていけばいいのだが、この究極的なアイデンティティーをどうやって開発するのか。教育だと言いたいのだが、現在の教育は功利主義的な面が強すぎて、人間とは何か、自分とは何か、といったことは教えられていないのでは。グローバリゼーションとの関係で言えば、欧米型の人間は自律的で深いルーツのない人間で、今の世界はそうした人間が活躍する世界だと思う。日本における企業への帰属意識ということでも、「私はホンダ人間です」、「私は松下人間です」というのは経済競争の世界での話で、それに固執すれば柔軟性に欠けることになる。アメリカでは転職はよくするし、引き抜きという現象もあり、日本に較べると経済人には柔軟性はあると思う。問題なのは、柔軟性のなさが宗教になってくるとまさに命をかけての競争になるわけで、そこまで行く前にまず柔軟性をもったアイデンティティーをもつ必要があるのでは。
佐々木:例えば環境問題についての経営者、経済人の日米の違いの背景には教育の違いがあると思うのだが。
幸泉:アメリカではよく企業の社会的責任ということが取り上げられていたが、その責任が国から世界へ、さらに宇宙にまで広がっていかなければならないという意識が出てきていると思う。だがMBA教育でそれが取り入れられているかというとまだまだだと思う。例えば、ビル・ゲイツはアフリカを始め、世界的に慈善活動を行っているが、彼はその必要をどこで学んだのか。ここでは彼の経済人としての人間のあり方を問いかけての行動が現れているところで、まさに資本主義における経済人の倫理観ということになり、キリスト教的倫理観になるのではないかと思う。グローバリゼーションの世界における経済人にはどのような倫理観が必要なのか、プロテスタント倫理を超えたものが必要なのではないかと思う。
古田:ハイブリッド・アイデンティティーについて、アメリカに行って市民権を獲得したベトナム人について言えることは、彼らがハイブリッドというか、割と柔軟なアイデンティティーをもっているように思う。ベトナム人であるが、アメリカ市民で、そして地球市民でもあるという風に。政治の面でもこれに対応して、ベトナムとアメリカの二重国籍を認めるようになっている。
幸泉:ベトナム人の例は現に多重的なアイデンティティーをもつ人間がいるということで参考になる。政治の場でも多重的なものを認めるようになればよいのだが、問題は政治の場で、あるいは社会生活の場で、お前は一体何者なのか、ということで踏み絵をさせられることがあるということだと思う。特に政治の場では、either/orの論理が支配するので問題がある。こうした単純思考が広がらないよう、これは教育の問題かと思う。
松本:ハイブリッドという語を使用しているが、それは多くのものが併存しているということなのか、あるいは材料として多くのものがある上でアイデンティティーが形成されるということなのか、どちらなのか。
幸泉:ここではハイブリッドという語を、先ほど述べた多重性、曖昧性、柔軟性という三つの特色を含めた意味で使っている。
松本:ハイブリッドの議論を進めていくと、かつてのmulti-culturalismの問題に行き着くのでは。つまり、アイデンティティーの確立が自分の問題から離れて、社会、つまり他者から承認されなければならないということになるのでは。
幸泉:実際、すべての人間がハイブリッドという自覚をもち、そういう自覚で社会的に行動すれば、それを社会的に承認する必要はないと思う。もちろんこれは理想論かも知れないが。
北島:キリスト教、イスラム、仏教などの宗教においても、私は一人ではなく、他者とともに生きる、さらに他者が自分のなかにいると説いている。つまり、われわれ一人一人の中にいろいろな人間が住んでいるということを説いている。したがって、ハイブリッドであることを他者に承認してもらうというより前に、他者により自分が活かされている自覚をもつことが大切なのだと思う。
幸泉:キリスト教の関係で言えば、イエスはユダヤ教を否定することから自分の教えを打ち立てたとされているが、彼自身ユダヤ人であることを強く意識しており、あくまでラビの立場でユダヤ教における宗教改革を行ったというのが最近の説のようです。だからこそユダヤ・キリスト教ということになる訳で、宗教においてもハイブリッド化というのは一つの傾向だと思う。あるいは、本源的にはどの宗教も同じ人間観を説いているということなのかと思う。
北島:宗教のハイブリッド化ということでは、ヒンドゥー教と仏教との関係についても言えると思う。
大久保:憲法に示されているように、近代政治思想では個人というものが確立されてはじめて社会が成立するという考えだと思う。その考えが行き過ぎると自己中心主義になるし、逆の方向に行き過ぎると集団主義になる。グローバリゼーションはその中間にある人間観を引き出しているということなのか。
幸泉:先ほど述べたように、人間観には政治的理想としての人間観と社会的現実としての人間観という二つの側面がある。近代民主主義社会を作り上げてきたのは政治的理想としての人間観で、現実にはどの社会にも階級、職業などから来る人間関係がある。もちろん、民主主義が社会編成原理としてうまく働くために、一人一人が自律体という意識で行動することが必要になる訳だが。大切なのは、自律体としての人間と関係体との人間という二つの側面をもつのが人間であるということを、各自が成長段階で、あるいは教育の場で学んでいくことだと思う。最終的には、個としての人間と種としての人間という意識に行き着かないといけないのだと思う。
松本:教育、特に近代教育の問題は個というものを極めて抽象的に捉え、教育の場では国家における国民養成という、いわば全体主義的な考えが教えられてきたことだと思う。国家、あるいは社会があるから自分があるというところまで行く前に、自分が自分であるのは他者があるからだということは教えられるべきだと思う。
片岡:アイデンティティーには確かに多くの要因が混じった曖昧なものがあると思う。大江健三郎が『曖昧な日本のなかの私』という表現をしているのがそれだと思う。その曖昧さがある意味で緊張を生み、われわれはその緊張の中で生きていくのだと思う。
佐々木:日本の戦後教育は軍国主義への反省から、曖昧さしかなかったのではないか。
幸泉:アイデンティティーの発見を含めて、自己確立のために教育が大切なことは言うまでもないが、教育には皆さんが言われるような問題があることも事実である。ある時には全体主義的な国家教育を、ある時には国家というものを曖昧にしか捉えない民主主義教育ということでは、教育を通して自律性と関係性との二つの側面をもった人間の本来の姿を学ぶことができないということになる。グローバリゼーションという現象について言えることは、いわゆる学校教育の場とは違う場で、自分とは違った文化・文明を伝統にもつ他者と触れ合う機会が増え、そこから混成性を学ぶことができる機会が増えてきたと言えるのではないかと思う。
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