契約は個人の自由意思によって形成され、身分制社会から個人を解放した功績もあるが、現代においてそれは自己中心主義の空間を広げている。何故ならこの自由は無垢でエゴイストな自発性だからである。一人ひとりの無垢で純粋な自発性は、その潜在能力の変化に応じて時と場合により変わるので、過去の自己の自由意志に基づく契約の遵守は現在の自己にとって不快なこととなり、契約社会は不快で覆われた紛争社会となる。
契約が快く遵守される社会とは、自己が自らのエゴを問いただし、破壊し、他者に対する無起源的・前契約的な責任を果てしなく負う正義において、他者の身代わり、生け贄になる社会であり、それが公共空間である。他者の身代わり、生け贄として自己の質料を他者に遺棄する受難において、自己は倫理的に解放され、類としてではなく、誰にも代わられえない宇宙に唯一の特異存在として自存することが可能となる。
身代わり、生け贄の公共空間こそが、国家・政治にとって「他なるもの」として、その外的刺激による国家・政治の自己変革を初めて可能にする。脱契約の公共空間は、自己中心主義にも全体主義にもならない真の共同体として、自己と他者とを分離かつ結合させ、契約の遵守を常態化させうる。
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