1.はじめに
グローバリゼーションを先導する国際機関、政府官庁、非政府機関、多国籍企業、民間団体を代表する欧米の個人が体現するのは、それぞれの職業人としてのアイデンティティーをもつ自律的な個人という人間観である。こうした人間観に対する違和感が、欧米以外の社会における個人レベルでのグローバリゼーションに対する反感の根底にあるように思われる。思想の歴史からすれば、個人を自律体と見る人間観は、ギリシャ哲学とプロテスタント神学という二つの思想の流れに発する西洋文明の世界で展開されてきた人間観である。これに対して、非西洋文明の世界で伝統的に支配的であった人間観は、アジアにせよ、アフリカにせよ、そのアイデンティティーが個人の属する社会における人間関係により規定される関係体と見る人間観である。
事実、西洋文明の世界においても、グローバリゼーションの先兵である欧米の個人が体現するのは、一つの人間観に過ぎないという認識の広がりが近年見られる。そこで個人レベルでのグローバリゼーションに対する反感を緩和し、グローバル化された21世紀の混成文明の世界において有意義な自らの存在を確立するためには、個人とそのアイデンティティー、つまり「私は誰なのか」という問いかけを、近年における政治哲学や心理学における議論の展開を踏まえ、21世紀の混成文明世界の現実と照らし合わせて吟味する必要がある。
2.「私は誰なのか」についての哲学的観念としてのセルフ
思想の歴史においては、「私は誰なのか」についての哲学的観念としてのセルフ(自己)には三つの伝統がある。その第一は、自己を一個の自律的な存在として捉える伝統で、古くは理性をもつ動物として人間を特別視したギリシャ哲学、そして宗教革命を契機に興隆した魂の救済を自己の責任とするプロテスタント神学に発する伝統である。自己を自律的な存在と見るこの人間観は、ルネッサンス・ヒューマニズム、啓蒙思想、リベラリズムへと、西洋文明の展開のなかで育まれてきた人間観である。
第二の伝統は、自己を他の人間とも関係のなかで捉える伝統で、西洋世界ではディアスポラを余儀なくされたユダヤ人の連帯意識から出てきたユダヤ教やマスに代表される教会での儀式を通して共同体意識を保ってきたカトリック教にも見られる伝統である。東洋思想の歴史においては、カーストの区別による社会的分業を説いたヒンズー教や社会を主従関係・夫婦関係・親子関係・兄弟関係・友人関係といった人間関係のなかで捉えた儒教思想が、この人間観の代表である。
第三の伝統は、自己という存在そのものを否定する伝統で、宇宙すべての存在を縁起関係として捉えた仏陀の思想や補完関係のなかで捉えた荘子の思想など、東洋思想が育んできた人間観である。
3.「私は誰なのか」についての心理的知覚としてのアイデンティティー
セルフという語が古い歴史をもっているのに対し、アイデンティティーという語、特にそれが「私は誰なのか」についての心理的知覚として使用されるようになるのは20世紀になってからである。それは学問としての心理学の登場と関係している。例えば、フロイドは1926年に行った講演のなかで、「個人の心に秘められた心理的構築」という表現を使っている。またエリクソンはその著作のなかで、第二次大戦後のベテランたちの心のケアをするなかから、「個人を元気ずける同一性と連続性に関する主観的な感覚」という意味でアイデンティティーという語を使用するようになったと述べている。
「私は誰なのか」について確固たる解答を与えないまでも、それを見いだすことが個人に安堵感をもたらすという意味で、アイデンティティーは無意識の世界に属する現象だと言えよう。このことをもっとも明確に述べたのはユングである。彼は他者から区別された個人としての自己意識は原状態としての無意識の世界から発するものだとし、したがって自己を他者から区別する意識としてのアイデンティティーは無意識世界に無限に広がる原初アイデンティティーのごく小さな部分に過ぎないとしている。
4.アイデンティティー形成の諸要因
フロイド、エリクソン、ユングなど先駆的な心理学者のアイデンティティーに関する考えは、その後多くの心理学者や哲学者によりさらに詳細に検討され、展開を見ることになる。その結果、現在ではアイデンティティーというものがどの個人にとっても一義的に規定されるものではなく、多義的な意味をもつものであると認識されるようになっている。というのは、アイデンティティーの形成には、個人の生育が行われる家族や地域社会、個人が所属する学校や職場、正統と異端を規定する社会規範や慣習、人種や信仰を異にするさまざまな人々との直接的・間接的な触れ合いといった多くの環境が関わっており、したがって、それは出生日、出生順序、血縁、人種、ジェンダー、性的傾向、ライフスタイル、社会階層、言語、職業、趣味、信仰、地域、国籍など、数多くの要因に影響されるものだからである。言い換えるならば、アイデンティティーは、どの個人にとっても(1)曖昧性、(2)柔軟性、(3)多重性、をもつものなのである。
アイデンティティーが一義的に明確に規定されるものではなく、曖昧で、柔軟で、かつ多重的なものだとしても、個人におけるその重要性が薄くなるということではない。自己と他者との区別・差異や自己が帰属する集団・地域を意識することで、「私は誰なのか」について明確ではないにせよ何らかの解答を与え、心理的な安堵感をもたらすという意味で、アイデンティティーは個人にとって重要なものなのである。
5.ハイブリッド・アイデンティティー
個人とそのアイデンティティーについての近年におけるこうした認識の変容は、グローバリゼーションによる異なる文化・文明を伝統にもつ個人と個人、社会と社会との接触の拡大と深化が、個人レベルでも、社会レベルでも、「混成化」という現象を進展させて来たことの反映だと言えよう。問題は、こうした文化・文明の「混成化」という現実を無視し、世界を相互排他的な文化・文明間の対立と見る、単純で一面的な文化・文明観の展開と政治外交の場でのこの文化・文明観の安易な援用である。グローバリゼーションを自らの成長と発展にとって実りのある社会変化として受容するためには、どの社会においても、
個人とそのアイデンティティーは明確に一義的に規定されるものではなく、本来混成的なものであるということを自覚する必要がある。純粋な自律体、自己利益を追求する純粋に合理的な経済人という人間観は、社会思想の世界で一つの理想型としての意味をもつことがあったとしても、それは、程度の差こそあれ、どの個人もハイブリッド・アイデンティティーをもつ存在だという21世紀の混成文化・文明世界における現実にそぐわない人間観であると言えよう。
6.アイデンティティーと内からのグローバリゼーション
個人とそのアイデンティティーは明確に一義的に規定されるものではなく、本来混成的なものであるとすれば、そのことを自覚するのが内からのグローバリゼーションへの出発点であろう。アイデンティティーというものが本来混成的なものであることを自覚するかぎり、一義的で他との妥協を許さない排他的なアイデンティティーではなく、誰もが状況に応じて変応しうる順応的なアイデンティティーをもちうるようになるはずである。そして、21世紀の世界が異なるアイデンティティーをもつ社会集団間の相克と抗争の無い世界として展開していくためには、個として、また種としての人間が宇宙すべてのものとの相互依存関係のなかでのみ存在するものであるということの自覚、つまり真の意味での自己発見・自己啓発につながる内からのグローバリゼーションを誰もが達成すべく努力しなければならないであろう。
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