はじめに
−『ブラック・アテナ』の三つの問題提起と今日のお話のテーマ−
本書『ブラック・アテナ』第一巻「古代ギリシャの捏造」が刊行されてから20年になります。その間フランス語、ドイツ語、スペイン語、イタリア語、スウェーデン語、アラビア語、中国語、ギリシャ語、アルバニア語、そして今回の日本語訳と10カ国語に翻訳され、広く世界の学会や論壇に衝撃と波紋を与えて来ました。また週間誌ニューズウイーク誌でも取り上げられ、クレオパトラもソクラテスも黒人だった、またピタゴラスの定理も実はエジプト人の発明だったというセンセーショナルな記事が書かれて、みんな驚かされたわけです。では学者や専門家だけでなく、これほど世界の人たちを驚かせたこの本にはいったい何が書かれているのでしょうか。大きく分けて申しあげると次の三つの点だと思います。
第一は、ギリシャ文化文明は当時の先進文明国であるエジプトやフェニキアから学びながら形成されたアジア・アフリカをルーツとする混成文化だったこと。そして実は当時のギリシャ人、歴史家も哲学者もみんなそのことを認めていたということです。
第二は、ヨーロッパが産業革命を果たし、政治的にも近代化を実現して、世界に覇権を主張し始めると同時に、これまで尊敬の対象としていたエジプト文明を否定しはじめ、ヨーロッパ民族という白人種が人類で最も進んだ人種で、彼らの近代文化文明が世界でもっとも優れた文明であるといわゆる「ヨーロッパ文明中心史観」を主張し始めたのです。
第三は、その結果古代ギリシャ文明は、エジプト文明やフェニキア文明(現在のシリア、レバノン、パレスチナ)とは無関係に、北方から来たアーリア人(ヨーロッパ人)によって創造されたのだという、これまでの歴史的事実をねじ曲げた「古代ギリシャ文明像」が捏造されることとなったわけです。実は皆さんを含め私たちは明治以来今にいたるまで、世界史のなかでこのような誤った「古代ギリシャ文明史」が教えられてきているのです。
では何故このような歴史の捏造が行われたのかと言えば、18世紀から20世紀はヨーロッパの植民地主義の時代です。エジプトもシリアもレバノン、またイラクもそれぞれイギリスとフランスの植民地となりました。彼らから見れば、昔はいざ知らず、今はもはや目下の民族ですし、地域ですから、そんな国の先祖から、彼らが「心のふるさと」と、これも勝手に言っているだけのことではありますが、「理想のギリシャ文明」が真似をしたり教えられたりして大きくなったなどということを絶対認めたくなかったのです。
気持ちは分かりますが、歴史の捏造はもっての外です。そのようにして生まれた近代欧米文明がこれまで何を行ってきたのか、また日本は明治維新以来欧米の真似をして来て、そのごどうだったのか、そして今日世界ではグローバリゼーションの名の下で何が起こっているか、あるいは起ころうとしているのかを考えてみなければならないでしょう。ですから本書『ブラック・アテナ』は世界のベストセラ−で、研究者や専門家たちをどきどきさせ、論壇(トリビューン)をぞくぞくさせた痛快な話などということですませるわけにはいかないのです。専門的な詳しいお話は、本書の片岡の序文と巻末の解説をお読みいただくとして、ここでは日本近代化150年の意味と今日に到る時代の推移を皆さんと一緒に考えてみたいと思います
1、日本近代化150年の歩みと戦前にいたる主要な思想の流れ
1)日本近代史の大まかな概要
先ず極く概括的に振り返ると以下のようになるのではないでしょうか。明治維新によって始まる日本の近代化は、当時の国際関係の中でいくつかの制約を受けつつ出発したと言えます。その前の江戸時代の経済的発展を引き継ぎながら、西欧先進国の開国の圧力の下で、後発資本主義国として欧米近代化システムを見習い、それに早く追いつく「富国強兵」策を推し進めました。立憲君主制下での制限議会主義と官僚主導の強力な産業政策がそれです。その結果日清戦争と日露戦争で自信を深め、遅ればせながら帝国主義国参入への野心が頭をもたげます。民衆文化や民衆運動を生んだ大正デモクラシーという一時代を経験しますが、その後は国際的孤立の中で、国内では弾圧の道を、外に向かってはアジア侵略の道を選択して、敗戦の憂き目を味合わさるに至ったということかと思います。
次いで戦後はアメリカ主導の冷戦の枠組みに組み入れられますが、いわゆる吉田茂の「軽武装国家論」を背景に、朝鮮戦争特需で戦後経済の復興を成し遂げ、さらにベトナム戦争特需にも助けられて高度経済成長に成功し、戦後30年にしてジャパンアズナンバーワンと言われるまでになり、先進資本主義国の仲間入りを果たします。しかしバブル崩壊以後は財政破綻に直面し、外資の攻勢も受け、冷戦崩壊とグローバリゼーションの潮流の中で、国際政治の局面でも国内政治の局面でも、つまり国家戦略の上でも国民生活の安定の上でも大きな曲がり角に立たされ、深刻な試練に直面しているわけです。
2)戦前までの社会的潮流
さて明治以降、日本の欧米近代化路線をめぐって、多くの論客が相次いで登場したことはご承知の通りです。明治から大正にかけての主要な思想的潮流を挙げれば、福沢諭吉の「学問のすすめ」に見られる積極的推進派、中江兆民の「三酔人経綸問答」における慎重派、夏目漱石などの懐疑派、河上肇や幸徳秋水らの批判派などに代表されるかと思います。そして1926年大正末期には、「白樺派」の文人武者小路実篤でさえ、当時創刊されたばかりの『文芸春秋』7月号の巻頭で、軍国主義的風潮の台頭に懸念を示し、文人外交官ポール・クローデル在日大使も、日本の官僚にアメリカの挑発に乗るなと懸命に説得してまわったと言われています(『孤独な帝国、−日本の1920年代−』、1995年)。このように、日本の欧米近代化が社会的にも文化思想的にも紆余曲折を辿りながら、しかし結局無謀な15年戦争に突入します。その一端は当時小学高学年生ながら軍国少年の心を内に宿していた私自身のことを振り返ってみても、当時の軍事的野望の潮流が国民全体に広く深く染み込んでいたと思います。1945年の初春父親から「日本は戦争に負けるんだよ」と言われたときもまだその意味がよく飲み込めなかった記憶があります。戦前戦中と日本社会の全体を覆っていた風潮がどのようなものだったのかが想像できるかと思います。
2、戦後日本社会の代表的思想と現代の二つの思潮の特徴
さて今日の私たちにとって、重要なのは戦後民主主義以降の今日の時代の推移ではないでしょうか。ここでは戦後の代表的な論客に限定して、戦後日本と今日の社会の問題をめぐる議論について、その特徴を述べておきたいと思います。学会や論壇において様々な議論が行き交いあました。そのなかでも特に、日本的社会と文化の特徴的と課題を説いた幾人かの代表的な論客に絞り、その人たちの意見を引用しつつ、現代日本の政治文化社会の危うさについての私なりの感想を述べてみます。
1)敗戦の挫折から生まれた「小さな希望」の視点
戦後間もなく、加藤周一は外国での旅から帰って、「日本文化の雑種性」を『思想』(1955年6月)に発表します。牢固として伝統文化に貫かれたヨーロッパでの長い旅から帰った加藤は、久しぶりに日本の美しい山河に心癒される一方で、海岸に面して林立する工場群の活気に遭遇します。神戸に辿りついた彼は、シンガポールやマレーシア、中国やインドの港が西洋の様式で作られているのに対し、神戸の港がアジアの他国の港とは違って、日本的様式をも取り込みながら近代的な港としての佇まいを立派に整えていることに気が付きます。そして、明治以来日本が辿ってきた近代化の道の特徴を振り返りながら、「日本文化の特徴は、(西洋文化と日本の文化の)二つの要素が深いところで絡んでいて、どちらも抜き難いということそのこと自体にあるのではないかと考え」ます。また「英仏の文化を純粋種の文化の典型であるとすれば、日本文化は雑種文化の典型」だと主張するのです。さらに西洋文化も歴史的足跡を良く見れば、いずれの国の文化も相互に交流しあって出来た一種の混合文化であることにも思いを致します。こうして「日本文化の雑種性にこそ日本の希望の未来がある」とする結論に彼は達します。
2)これまでに話題にされた日本論・日本文化論
日本の社会や文化の特徴とその変容の歴史については、その後も整理がなされ、仮説が提起され、また様々に議論がなされてきました。なかでも戦後に話題に上ったものとしては、ルース・ベネディクトの『菊と刀』、丸山真男の「タコ壷文化」論、梅棹忠雄「文明の生態史観」からみた「日本文化論」、中根千枝『タテ社会の人間関係』、エズラ・ヴォーゲル『ジャパンアズナンンバーワン』、青木保「文化の否定性」、山崎正和『日本文化と個人主義」、中野孝次『清貧の思想』、カレル・ヴァン・ヴォルフレン『人間を幸福にしない日本というシステム』、森嶋通夫『なぜ日本は没落するか』など多数に上ります。また最近では、小熊英二の『民主と愛国』(2002年)などの労作が注目されています。
時間の関係もありますので、ここでは戦後二人のノーベル文学賞受賞作家がそれぞれ授与式で講演した「日本文化論」を取り上げたいと思います。二人の主張が全く対照的で興味深く、ある意味で今後の日本の潮流の行方を占う内容をもっていると思うからです。
3)川端康成と大江健三郎の日本観
川端康成は、道元、明恵、西行、良寛、一休など平安中期から鎌倉、そして江戸後期へと連なる歌人の歌心を紹介しつつ、「思索の主はあくまで自己、さとりは自分ひとりの力でひらかねばならない。・・・論理よりも直観です。他からの教えよりも、内にめざめるさとりです。」と述べます。つまり川端は、近代的自己を肯定する一方で、日本の文化の特徴が、西洋的論理に貫かれたものではなく、古来日本独特の風土に培われた純粋で巧まぬ美的感性に貫かれている点にこそあると主張したのです。しかし彼は芥川や太宰の自殺を否定しながら、結局近代的自我と自然を頼む自らの感性との狭間を克服できずに、自殺という形で作家人生の結末をえらぶ結果となりました。
一方評論活動にも積極的に取り組みながら、文学作品では初期の作品を除き、独特の難解な文体で読者を悩ませ続けた大江健三郎の方は、川端の「美しい日本の私」を意識してか、敢えて「あいまいな日本の私」と題した講演を英語で行っています。戦後育ちの大江は、現代日本が、あるいはその「富」がもたらした社会の在り様を、自分の生(敗戦後のアメリカの占領体験、知恵遅れの障害児の誕生など)とも重ね合わせつつ、『死者の奢り』、『わたしの時代』、『万延元年のフットボール』などの作品を相次いで発表しました。大江は、これらの作品を通して、性に左右される疎外された人間と戦争の悲惨から逃れられない人間社会の現実を、執拗なまでに独特の難解な文体で追及しています。そのため後年は売れない大江の本を売るのに書店という書店が苦労し、ノーベル賞が授与されてやっと助かったとう話も聞いたことがあります。さて余談は別にして、大江は受賞記念講演のなかでおよそ次のように述べています。
「自分は出来るだけ日本人として上品であるように努めたいのだけれど、現実にはなかなかそうはなっていないのです。ヨーロッパ人にも分かってもらえないだけでなく、自分に対してもうまく説明できないのです。率直に言って、私は川端と同調することは決してできません。しかしその一方で美しい伝統的な日本の感性と、合理主義と科学技術の西欧との狭間で、自分がいつまでもあいまいなままでいるのがもどかしく思えてならないのも事実です。」
つまり別の言い方をすると、大江は、川端が求めた「美しい日本」の伝統的メンタリティ(朝日に匂う山桜花=大和心)と、西欧文化を積極的に受容した「近代日本」という、日本の宿命ともいうべきこの二つの相反する異質な文化と社会の相克を、敢えて妥協や逃避や安易な融和を排して表現しようとしたと言えます。こうして大江は、ある意味で醜悪で「あいまいな(anbiguous)」矛盾する現実をそのままに、作家としての自分の内に取り込んで、独特のグロテスクな文体で描き続けました。大江は、講演の最後を次のような言葉で締めくくっています。
「二十世紀がテクノロジーと交通の怪物的な発展のうちに積み重ねた被害を、(略)ひ弱な私自らの身を以って(略)受け止め、(略)人類の全体の癒しと和解に、どのような(略)貢献がなしうるものかを、探りたいと願っているのです。」
大江が指摘した世界と日本の現実に対する認識は、今も変わるどころか、グローバリゼーションが進展と共に、「美しい日本」というレトリックとは裏腹に益々危うい方向に向かっているように見えます。敗戦の恥辱と戦後の市場原理主義的な経済発展との背中合わせの中で、川端は漢心からも洋才からも解放された純粋な「大和心」の世界を文学で実現しようとして、その二律背反に抗し切れずに自殺しました。一方醜悪でグロテスクで過酷な人間と社会に向き合いながら、これを「あいまいな日本」の現実として受け止めた大江は、難解な文体でつづる文学作品と簡明な評論活動とによって辛うじてバランスを取っていたと思われます。そして今なおおそらくは自己と現実との格闘を続けながら、外国の作家との積極的な異文化対話に取り組んでいるように見えます。そこには「穢れ」を拒む日本風純粋美学も、平安期以来の伝統的「滅び」の美学も見られません。私たちは、国際社会が現代日本を代表する文化人として選んだこの二人の作家のいずれの内に、今後の日本を占う「希望の美学」を見出す可能性があるのでしょうか。
3、『ブラック・アテナ』と現代日本社会の動き
1)市場主義経済と文化ナショナリズム
1980年前後のバブル経済の時期、日米欧の間に通商障壁が外交問題になったことがあります。この頃文化人類学者の青木保が「文化の否定性」という一文を『中央公論』に発表して話題になりました。事実例えば、ややカリカチュア的ではありますが、アメリカは「自動車はアメリカが発祥の地であり」、フランスは「映画はフランスが発明したものであり」、日本は「米は弥生時代以来の日本の文化そのものである」と、それぞれが自国の伝統文化の重さを主張して、これらを自由貿易の枠組みの外におくことを主張してみせたのです。つまり1980年代に始まった経済のグローバリゼーションの進展にそれぞれの地域の伝統文化が阻害要因をなす可能性を指摘してみせたのです。ハンチントンの『文明の衝突』もその延長線上にあると言えます。その後冷戦崩壊という転換期を迎え、それを機にアメリカの一極パワーポリチックスが、民族ナショナリズムの台頭や宗教対立をいやがうえにも顕在化させて今日にいたっています。
2)「戦後総決算」と「単一民族国家論」
今日の欧米主導のグローバリズムがもたらしている危うい状況については、多くの問題指摘が識者によって行われてきました。日本について言えば、中曽根首相の「単一民族国家」論以来の世論動向が気になるところです。「戦後総決算」ではなく、日本近代150年の歩みから振り返る必要があるのではないでしょうか。民衆の世論によってではなく、外圧の下で上から行われた明治維新、そして外から与えられた戦後民主主義。いずれも内から市民の要請と力で獲得した体制でないだけに、政治経済体制の変遷とは別に、加藤周一が述べた、言わば内から作り上げられる「雑種文化」の希望が果たして今後どのような軌跡を辿ることになるのかを見ておきたいと思います。上で戦後の二人のノーベル賞受賞作家を例に挙げましたが、大江がこだわる「あいまいさ」も川端が固執する「大和心」も日本近代化の独特の産物のように見えます。日本がアジアでもヨーロッパでもないと言われる所以かもしれません
3)民族主義と人種主義の隘路
少し別の角度から以上の問題を考えてみたいと思います。例えば20世紀世界を跳梁した新興先進資本主義国アメリカは、益々格差と働く貧乏人(The working
poor:D.K.Shipler,2005)が拡大する典型的な資本主義社会だと言われています。またその一方で人口構成は多様を極め、多数派の白人種は60%以上を占めるとは言っても、近年益々ヒスパニック系、黒人系、アジア系などが近く多数派を形成するかもしれないと言われています。例えば西部カリフォルニア州の南部やその他の地域でも、他人種が足を踏み入れることさえ躊躇う黒人地域がまるで独立した自治区のように堂々と生活空間を形成しているなどは有名な話です。また東部エスタブリッシュメントがホワイトハウスで何を決めようが、まったく感知しない時間と空間がアメリカ社会の彼方此方に存在することもよく指摘されることで、日本では到底想像が出来ないことでしょう。
異人種異民族に対する私たちの感覚で言うと、例えばブラックという英語は「黒い」と訳されると同時に、暗い、闇の、汚れたなどというイメージと重ねられることが多いようですが、しかしそれは英語や欧米語など白人種の文化や、その影響を受けた黄色人種の文化世界のことです。川端も白一色に浮き出る雪国や燃え盛る火事の中に浮き出る駒子の白いうなじに又とない美を感じようとするし、大江でさえ黒人への差別感に敏感に反応しています。しかし筆者の少ない経験から言っても、例えば黒人世界に一定期間三ヶ月とか半年とか生活していると、白人種のプロフィルがどうしようもなく奇妙に暗く冷たく見えてくることがあります。そういう時黒い肌の人のプロフィルがむしろ一段と優しく美しく、また誇り高くたくましく見えてくるから不思議です。
また市場原理主義経済による格差拡大の中で様々なレベルでの共同体崩壊が指摘されています。例えば若者たちの間には「きもい」「うざい」という言葉で仲間を切り捨てる風潮が見られます。とかく分断されがちな弱者社会においてこそ、相手を受け入れ、仲間を尊重しつつ批判する感受性の多様性が求められていると思います(「醜い日本の私」中島義道、2006年12月、新潮選書)。
4)「美しい国」つくりという名の現代史の虚像の捏造
確かに経済のグローバリゼーションは世界をグローバルスタンダードで一色に染め上げようとしているかに見えます。しかしその一方で、世界各地域からの抵抗が地球文明の持続化に向けた動きと共に強まるでしょう。世界がグローバル化すればするほど、多様な生活様式や価値観への要求が強まるとも言えるのではないでしょうか。世界は多様な民族文化と多様な価値観から成立しているのであり、そのことこそが、生物界における多様性の原理と同様に、地球人としての私たちの世界の存続を保証しているとも言えるのです。それが世界の常識であり、国際社会への積極的な貢献を謳う一方で、戦後日本の総決算と称して「単一国家」日本という概念をたとえ国内向けとは言え売り込もうとした政治姿勢は、世界の非常識として批判されました。それは『ブラック・アテナ』が特に指摘している19世紀初頭のプロイセンに台頭したゲルマン民族主義と重ねわせてみるとき見過ごせないのです。革命を主導するフランスに対抗するものであったとは言え、人種的にも文化的にも混成的に成立したそれまでの真性「古代ギリシャ」像に代えて、「芸術的で哲学的な聖なるギリシャ」、そして「純血人種ギリシャ」という理想的ギリシャ像が捏造されたのです。しかもこの作業が当時のプロイセン社会を支配していた政治と学問が強く結合して行われています。アメリカの一極支配の後退と北東アジアの台頭という国際関係の変動があるとしても、日本社会に三度(日露戦争後と太平洋戦争前)芽を吹き始めたショナリズムの動きが徐々に足音を高めつつあるように見えます。例えば1980年代から強化されてきた教科書検定は、今年敗戦直前の沖縄の悲劇に記述にまで及びました。これまでの「軍の命による集団自決」の文言から「軍の命による」の言葉が削除され、沖縄の人々の大きな反発を買いました。わずか数語の削除ですが、そこには無謀な戦争に突入した大日本帝国軍隊と集団自決を強要されたた沖縄の民を美化し、多くの犠牲の上に獲得した戦後の平和の思想を風化させようとする意図が透けて見えてきます。しかし1300兆円と言われる赤字財政の具体的解決の見通しを示せないまま、「集団的自衛権」という名の解釈改憲と「9条2項」の改正に的を絞った改憲のための「国民投票法案」とセットにされた「美しい国」日本の国つくりというレトリックとは一体いかなるものかは、皆さん自身が容易に想像できるものではないでしょうか。そもそも民主主義とは、主人公である民一人ひとりが、しっかり歴史に学び、現実を見据え、勇気を持って発言し行動することがなければ成り立たないものだと思います。そこがアメリカであれ日本であれ、朝鮮半島であれ中国であれ、ベトナムであれイラクであれ、何処であってもです。
おわりに −まとめと三つの問題提起−
1)まとめ
最後になりましたが、マーティン・バナールは、本書によって古代史を見直し、そこから逆に近代史を手繰り寄せて、捏造のからくりを綿密に解き明かして見せてくれました。そしていろいろ議論はあるでしょうが、何より本書は、欧米のエスタブリッシュメント社会の中心から勇気を持って書かれ、出版された内部告発の書だということです。細部においてご意見は多々あるでしょうが、先ずはそのことに留意して欲しいと思います。詳しい議論は割愛しましたが、本書は今日のグローバリズムを生み出した欧米近代文化文明の功罪を問う書だということです。近代ヨーロッパ文化文明はどのようにして生まれ、形成され、世界を支配してきたのか?またその過程でヨーロッパは自分自身のイデオロギーを、あるいはイメージをどのようにして作り上げ、それによっていかにして世界支配を巧みにかつ有利に進めることができたのか?つまり近代ヨーロッパ文化文明の功罪を現実とイデオロギーの両面から検証する必要があるということです。
そして私たちにとってもっと大事なことは、その近代ヨーロッパ文化文明を、特に明治維新以後いかように受容してきたのかということ、またその過程で近代ヨーロッパの文化文明像をどのようなものとして描き、形象し、取り込んできたのかということを今一度しっかり見直す必要があるということです。そのことによって、私たちの「世界史」や「日本史」や「政治経済」や「人文地理」の見方や記述が変わることが期待されています。そしてその作業を通してこれからの世界や日本の行方を占い、その有るべき方向性を見定める努力をすべきではないでしょうか。またこうして、多様な教科書や参考書によって社会科教育を学んだ日本の若者たちが、これまでの日本近代一五〇年とはいささか異なった、新しい希望のシナリオの担い手となって、加藤周一が50年前に述べた「雑種文化、日本の小さな希望」を今度こそ21世紀の日本社会に実現してくれることを期待してやみません。それでは最後に片岡の方から、具体的な問題提起を三つ申しあげて私のお話を終わらせていただきます。
2)三つの問題提起
◎一つは、すでに申しあげたことですが、例えば日本の歴史教科書「世界史B」の記述を高校の教科書の執筆にあたる専門家やその教科書を使って教室で生徒に教える立場におかれている先生方によって、今一度これまでの教育内容や教え方で果たして良いのか、是非検討してみていただきたいということです。二〇〇四年に新課程世界史教科書は十一種類出版されました。それから四年後の来年2008年に改訂が検討されることになっていることは、みなさんご承知の通りです。そこで遅ればせではありますが、『ブラック・アテナ』第一巻が世に出たわけで、そこで従来のヨーロッパ文明中心史観が修正されているのですから、11種類の教科書すべてではなくとも、少なくともその内の一冊、出来れば何冊かは『ブラック・アテナ』の労作を反映した新しい教科書にしていただけないかということです。また改訂に間に合わない場合でも、教室で実際に世界史、日本史、政治経済、人文地理など社会科の授業を担当される先生のところで、プリントを使って補うなどしていただきたいと思います。
◎いま一つは、なぜ歴史を「世界史」と『日本史』とに峻別して、別々に教えるのだろうかということです。これは高校だけのことではなく、大学においてもそうですが、また書店の棚を覗いても二つは全く別の分類になっています。今度世界史関係の本を読んでいて気が付いたことです。世界史の教科書や書籍の何処にも、日本の歴史がその一部として全く触れられていないのです。昔はいざ知らず、良きにつけ悪しきにつけ20年以上前に「国際国家日本」を自ら標榜し、時代もさらに進展してグローバリゼーションという毒素を孕んだ荒波に洗われているというのに、果たしてこのままで良いのだろうかと思ったのです。本書の第六章の冒頭でも述べられておりますが、高校の社会科教育だけでなく、日本の人文社会科学全体について言えることかと思いますが、教科や学問が細分されていて、その間の共同研究や情報交換が旧態以前のままであることが問題なのだと思います。ですから「世界史」と「日本史」の住み分けの問題だけでなく、「政治経済」も「人文地理」も含め、全体が相互に深く関わりあっていて、しかもそのいずれもが従来の欧米中心の文明史観や学問・学芸によって深い影響を受けているわけですから、社会科教育全体として、あるいは人文社会科学全体として、この問題に取り組む必要があると思います。
◎そして最後の私の問題提起は、私たちが150年前に受容した近代西洋文化文明のルーツをどのように遡るのかという問題です。一つの捉え方ですが、1万年前の人類の文化文明の発祥まで辿るか否かは別にして、例えば先ずはエジプト・フェニキア文化文明が栄え、それをギリシャ・ローマ文化文明が受け継ぎ、次いでイスラーム文化文明がそれを継承して、近代ヨーロッパ文化文明にバトンタッチしたものだと考えれば、いずれの文化文明もその前の文化文明の再生=ルネサンスとも言えるのです。つまりルネサンスは十四・五世紀のヨーロッパの専売特許ではないのです。またこの事実を別の角度からみれば、これも本書の指摘するところでありますが、ハーバート・スペンサーらの社会進化論に胡坐を書いて自らを人類最高の文明と信じて疑うことをしらない近代ヨーロッパ文化文明にしても、実は長い人類の文化文明史の一つの分野、百歩譲ったとしてそれらの表層を形成するものに過ぎないのです。したがって、欧米文化文明を最も進歩発展したシステムとする通念や、今日グローバル化したパラダイム・モデルや価値観に狭く捉われることなく、これからの私たちの21世紀世界の行方を新しい発想とビジョンで、つまり私たちが提起する新しいルネッサンスとして自由に堂々と構想すれば良いのではないでしょうか。
註:なお上記で述べました「ルネサンス」については、伊藤俊太郎著『十二世紀のルネサンス』〈講談社学術文庫〉、アラン・ド・リベラ著『中世知識人の肖像』(新評論)など参照されることをお勧めします。
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