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Global Network 21
グローバル・ネットワーク21
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2008年度春季シンポジウム
:『内からのグローバリゼーション:蒼い地球村再生のための行動計画』

(発表報告)

脱契約社会と正義:他者への責任としての「これでよいのか」

                                                  

松本祥志

                 

1・はじめに

金融グローバル化はヘッジファンドや先物取引であれ、敵対的買収や為替取引であれ、契約の形式をとる。それを感情と理性の視点から見直すと、グローバル化の隙間が炙り出される。近代の契約は社会契約も消費賃借契約も、個人の自由意志によって形成されるとされ。歴史的にはそれが身分制社会から個人を解放したとされるが、もともと限界がある。契約自由の原則においてでも譲渡されえないものがある。思想・信条、信教の自由等の精神的自由はどんな契約によっても譲渡されえない。なぜなら人間はその精神的内容の故に人間とされるので、それを譲渡してしまえば獣と変わらなくなるからである。

また契約は自己中心主義を強める。契約の申し込みと承諾は当事者の自由意志による自己中心主義的な損得勘定を免れえない。それでは自由意志とは何か。それはモノの享受から見えてくる。人間はモノを享受することなしに生きられない。モノの享受はコギト以前のまどろみにおいて無意識に浸るエゴイストな依存であるが、このまどろみにおける自由は自ら問いただしていない無垢で純粋な自発性である。この自発性は自己中心主義的な自由であり、モノの無制約な享受への欲望となって表われ、欲望を暴走させ、暴走に隷属する自由となる。だが一人ひとりの無垢で純粋な自発性や意志はエゴの質料の違いにより、それゆえ他者からの外的刺激に対する衝動の違いにより異なる。また一人の人間においても欲望が変容し、無垢で純粋な自発性や意志も時と場合で異なる。それゆえ契約時に快とされた契約も、履行期限が迫ると不快となる。

欲望は限りないので感情も限りないが、感情の問題は感情によっては解決されえないので「なぜ感情を克服できないのか」と問う瞬間が現われる。その瞬間、自己は理性を掴む。だが感情は理性的な実践のエネルギー源でもあり、人間から感情が払拭されることはない。無垢で純粋な自発性のまどろみの粘つきを剥ぎとり、コギトに目覚める痙攣は無限に続く。しかも理性でさえ金融グローバル化の下で、損得勘定の方程式の変数に入る数値によっては快の方程式を不快の方程式に変貌させる。

この変貌の可能性は近代法において「事情変更の原則」として例外的に認知されているが、実態においては例外ではない。そもそも自己にとっていいことが他者にいいとは限らず、契約に結実する意志の一致は情動ベクトルの交差の幻想であり、時間とともに溝が広がる。しかも生の躍動において自己の変容は原則である。つまり理性以前のまどろみにおいて、他者に責任を負う真の契約は出現しえない。他者の差異(=他性)によって問いただされていない同としてのエゴの自由意志により締結される契約は、他性の外的刺激からの自己防衛の実情により不安定化されている。

 

2・契約遵守の条件

契約が快く遵守されるには自らのエゴを問いただし、他者に対する無起源的・前契約的な責任を果てしなく被ることが前提となる。それは原罪さえ必要とせず、何の理由も容疑も告げられないまま自ら負う責任であり、不意に被る打撃のように降りかかってくる「責任を超えた責任」である。それは自己中心主義的な損得勘定の遥か以前に、どんな受動性よりも受動的な超受動性において、何の理由も根拠も起源もなく被る受難である。この受難において身代わり・生け贄として捧げられるのはモノではない。「言語的なるもの」において精神的内容が捧げられる。によってでなくにおいてなのは、によってだと自己の外部にあるものを借用して伝えることになり、自己の内側にあるものを伝えられないからである。

言語的なるものにおいて伝えられるのは自己意識である。だがまどろみにおける自己意識はエゴイストなので、自己中心主義しか伝えられず、契約締結は自己中心主義の内祝いとなる。一方、他者に伝える意味のある意識が表われるのは、他に転嫁しえない一者となって前契約的な責任を被るときである。なぜなら意味の意味することとは他者に責任を負うこと、身代わり・生け贄になることだからである。身代わり・生け贄は近代社会でも家族や友人などの間にみられる。企業においても就業規則の遵守だけでは業務は成り立たない。エゴの遺棄によって開かれる公共空間がなければ国家も自治体もモノの享受に対する欲望の暴走に隷属し、帝国主義化する。

他者に遺棄されたエゴはその全質料を失うが、得るものも大きい。エゴは遺棄の過程で他者から心性を吹き込まれ、自己を超えてその手前または彼方に隔時的にずれて自己に再帰する。だがエゴから自己への再帰の瞬間、自己は再び新たな無垢で純粋なエゴに滞留し、感情の粘つきにおいてまどろむ。それはエゴから自己への再帰の無限性を告知すると同時に、感情から隔絶不可能性をも知らせている。かくして理性は他者にあるが、他者は自己の外部、つまり自己とは異なる空間にいる。自己が他者と同時的に同一空間で出会えないとすると、契約も対等平等な当事者によって能動的に締結されるのではなくなる。だが近代契約理論は、時空の共有を前提にしている。自他が同一空間に置かれると、自ら自己中心主義的に設定した目的達成の道具として他者をモノ化、支配、所有する帝国主義に陥る。帝国主義にならないためには自己と他者が対等平等であってはならず、隔時的でなければならない。

自己にとっての感情は自己の感情だけであり、他者の感情は自己の感情になりえないので、他者は自己にとって非感情、つまり理性である。それゆえ契約の相手方当事者は理性である。自己がそれを超受動的に被ることになれば、契約自体が理性となる。真の契約には他者に対する責任の受難が基底する。

他者による教えの呼びかけに「応答する response」ことが責任を負うということ、身代わり・生け贄になることである。それゆえ「責任 responsibility」とは果てしない問題化であり、一つの固定化された正解に至る「絶対知」によって果たされるものではなく、命題から無起源性へと非命題化される「これでよいのか」という問いかけである。非命題化されたことも命題と化すが、非命題化されない場合とは隔時性において異なり、隔時性においてエゴは再帰する。そこにおいて自己が他者の身代わり・生け贄となり、「これでよいのか」という問いが公共空間への開口となる。

 

3・脱契約的共同体

身代わり・生け贄となるエゴの破壊による非場化が公共性への入り口であり、そこにおいて人間は代替可能な類としてではなく、誰にも代替されえない唯一の特異存在として自存する。この自存が契約の超受動的な遵守に不可欠な前提条件であり、それを欠く近代社会において契約は断片化された個の自己中心主義的な囲い込みの祝福となる。交換的取引ではなく、身代わり・生け贄、贈与・歓待の公共空間こそが国家・政治にとって「他なるもの」として、その外的刺激による国家・政治のコギトという覚醒を可能にする。それが依存的・隷属的な臣民からの自存的な市民の誕生である。

国家権力による制裁や強制執行によって定立される契約社会においては、国民も臣民として内部化され、国内には国家にとっての外部はなくなり、外的刺激がなくなる。その結果、世界は国家という同質に埋め尽くされ、停滞する。また同一性の断片化によって他者性は現われず、三権に分立された立法、司法、行政の何れの権力も国家内部において自己中心主義による呪縛から解放されることはなく、それらの「抑制と均衡」も国家権力という一つの幹に全体化された枝葉のそよぎに過ぎない。

恰も命令される前に自らに命令するかのような脱契約の公共性は、断片化され囲い込まれた教条的な「イズム -ism」ではなく、他者に対して自ら負う責任の全的で果てしない「性 -ness」として無限に超越する。それは自己中心主義にも全体主義にもならない共同体を開き、契約の超受動的な遵守を可能にする。

 

4・おわりに

エゴイストな契約社会において契約の遵守は不快となり、裁きの言葉の戯れによって紛争に発展する。なぜなら契約は自己中心主義に基づいて形成され、それを祝福し、循環させるからである。この円環を切断しうるのは、自らが他者に対して前契約的・無起源的に負う果てしない責任の受難である。この責任は他者による問いかけを非命題化する「これでよいのか」という自問であり、他者の身代わり・生け贄になる受難であり、それが契約の遵守を内面化する。なぜなら契約が遵守されるためには、契約相手が敵として卑しめられるのではなく、師として尊重されていなければならないからである。師との契約は契約内容を超加する贈与・歓待によって履行される正義となる。

それに対して金融グローバル化は「等価交換」の同時履行により自己中心主義をグローバル化させ、到る所で社会を瓦解させる。

 

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